キャスリング 金山城編(日本100名城・関東7名城)

東武伊勢崎線太田駅から北に4.3キロ、70分歩くと金山城跡があります。

車の場合は、北関東自動車道太田桐生インターから、 西に4.2キロ、10分ぐらいで金山城の駐車場、金山総合公園モータープールです。広い無料の駐車場です。

標高235mに築かれた金山城の駐車場からは太田市内が一望でき、案内看板を見ると南曲輪休憩所(ここがゴール)まで約600mです。

駐車場から、西に歩くと金山城跡の地図と石碑があります。地図を見て全体像を把握します。東西に細長いです。それではキャスリングスタートです!

1336年 佐野義綱が新田庄の新田城を攻め滅ぼしたと言われています。新田城は新田義貞により金山に建築されていたという説がありますが、まだ解明されていません。

西矢倉台西堀切は、西城から本丸までの4つの堀切のうちの一番西側にあります。堀底に石を敷き通路として利用されていました。通路の北側には柱穴があり柵が設けられていたと考えられます。堀った土を堀切沿いに土塁として築いていました。

1469年 新田一族の岩松家純によって築城されました。

2番目の堀切は、写真では浅いですが、地面から1.5m下が堀底になっていました。

1528年 由良成繁、国繁親子が城主となります。

駐車場から歩いて10分、さあ石垣が見えてきました。手前は土橋になっており、左手には、岩盤を削った堀切があります。

1584年 北条氏が城主となります。

迫力のある堀切です。

土橋、虎口を越えると木橋があり、右手には竪堀と土塁石垣があります。これは素晴らしいですね!

上杉謙信が攻めましたが、なかなか落ちず関東七名城に数えられた難攻不落の城です。

関東七名城(①川越城②忍城③前橋城④金山城⑤唐沢山城⑥宇都宮城⑦多気城もしくは常陸太田城)です。

1569年 北条氏は上杉謙信と和睦します。(越相同盟)

馬場下通路の上に上がると大手口馬場です。

1571年 北条氏政が上杉氏と断交し、武田信玄と手を組みます。

馬場の西側には物見台があり、上杉謙信が攻めた際は、この物見台の死角になる場所に陣をはりました。建物の礎石も残されています。

1574年 由良成繁は金山城で上杉氏と戦いました。

馬場曲輪は、柵で囲われ、掘立柱小屋や礎石建物がありました。今の建物は倒れそうです。

1576年 由良国繁が跡を継ぎます。

馬場曲輪の東側は、金山城最大の大堀切となっています。長さ46m、幅15m、深さ15mと巨大です。堀底には畝状の防御施設が1ヶ所発見されました。山中城のような畝堀の初期だったのでしょうか。

1585年 書状によれば、館林城、金山城ともに開城し、北条氏のものになります。

大堀切の下には、月ノ池があります。上下二段の石垣で堀切からの流れた水や浸透水が溜まるようになっていたそうです。

1590年 豊臣秀吉の小田原征伐で、前田利家は金山城を接収しました。その年、由良氏は常陸牛久に異動し、金山城は廃城となりました。

いよいよ大手虎口です。水が溜まりやすい谷なので、排水のため石組排水路、溝の排水施設が充実しています。

大手虎口は正面に正面土塁石垣、南側に壇状土塁石垣で防御態勢がとられています。

虎口を上がっていくと、月ノ池よりも大きな日ノ池があります。生活用水の確保だけでなく、戦勝祈願なや雨乞いなどの儀式の場所でもあったようです。

南曲輪の日本100名城スタンプが置いてある休憩所に着きました。

虎口から北は三の丸、南は南曲輪、三の丸の北には、二ノ丸、本丸が置かれていました。

金山城跡に翻る幟旗は由良氏(横瀬氏)のでした。

大手虎口南上段曲輪からは、礎石建物跡や釜戸、井戸跡が見つかました。

建物は石敷で湿気を防ぐ為だと言われ、火薬などを備蓄した武器庫だと思われます。大手虎口を守る防衛拠点でした。

このお城の主役は由良氏でしょうか。時代によって味方、敵を変えていきながら、江戸幕府では高家に就き、明治維新まで続きました。

石垣は、北条氏か由良氏か誰が造ったのでしょうか?北条氏は土塁で城を築くイメージがありま。岩盤を削った堀切を見ると、石材には困っていないと思います。同じ日に見た、唐沢山城も立派な石垣でした。これを自分なりに考えるのが歴史の醍醐味ですね。約90分のキャスリングでした。本丸の新田神社は日没だったので行きませんでした。



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