キャスリング 沼田城編(続日本100名城)

JR上越線沼田駅から東に1.2キロの所に沼田城跡があります。沼田駅からの80mほど上るので、坂道がつらいところです。

車の場合、関越自動車道沼田インターから、西に3.3キロ、10分走ると沼田城址公園駐車場があります。公園の冠木門左手に無料の駐車場があります。

駐車場の敷地は、かつての三の丸でした。東西380m、幅120mの敷地には、侍屋敷があったと言われています。

駐車場の隣に、沼田市観光案内所があります。この中に、続日本100名城スタンプが置いてあります。他にも沼田城ジオラマやパンフレットが置いてあります。天然の要害である、河岸段丘の上に城下町を城郭を築きました。

資料館で三の丸や本丸の位置を確認しましょう。資料館を出て、本丸である沼田公園内を西に時計周りで周ってみます。

まずは水の手曲輪と言われる南西の角です。ここからは河岸段丘の崖から沼田市内を望みます。そばには、沼田城のシンボルの鐘楼があります。

1532年 沼田市12代の沼田顕泰が築城しました。その後、山内上杉氏の没落と北条氏の台頭により、どちらに属するかのお家騒動になりました。結局北条氏出身の沼田康元が城主となります。

1560年 上杉謙信が沼田城を落とします。上杉家の沼田三人衆による支配となります。

沼田城は取ったり取られたりする城なので、年表も細かいです。北に進むと西櫓台石垣が見えてきました。

1578年 上杉謙信の死後、御館の乱(上杉氏の家督騒動)の隙をついて、北条氏が沼田城を落としました。1579年甲越同盟(武田氏と上杉氏の同盟)が成立し、上杉景勝が、武田勝頼に沼田城攻めを認めました。

西櫓(乾櫓)の石垣はしっかり残っています。

さらに北に進むと捨曲輪になります。

1580年 武田氏家臣の真田昌幸が、沼田城代の金子泰清をを調略し、昌幸の叔父の矢沢頼綱が無血開城させます。しかし、北条氏の支援を得た沼田景義が挙兵しますが、金子泰清の謀殺により殺害され沼田氏は滅亡します。捨曲輪には、沼田景義の首級が置かれた石があります。

1582年 武田氏が滅亡し、武田領の沼田が織田家臣滝川一益に与えられ、滝川益重が入城します。同年に本能寺の変が起き、沼田城は北条氏に降った真田昌幸が支配します。

1589年 豊臣秀吉の裁定により、沼田城は北条氏のもの、利根川西岸の名胡桃城は真田氏のものと決まります。この名胡桃城を巡り、北条氏は滅亡しますが、詳しくは名胡桃城編で!

捨曲輪から北西を見ると、沼田城の支城である名胡桃城が見えます。

1590年 北条氏が滅亡し、沼田城は真田昌幸の長男の信幸が城主となります。

捨曲輪には、天狗堂があり、顔の長さ3mの迫力の天狗が奉納されています。

1600年 関ヶ原の戦いで東軍についた真田信幸(信之)は、上田領も継承し、9万5千ごくの上田藩として立藩し、五層の天守閣を築きました。

絵図などで18m四方、石垣は堀底から高さ15m、関東では江戸城と沼田城だけの五層の天守など、特別なお城であった事が分かります。天守跡近くには、真田信幸と小松姫の像があります。小松姫は、徳川方の本多忠勝の娘です。孫の顔を見たいと訪れた敵方(豊臣方)義父の昌幸を追い返し、後でこっそりと孫を連れて見せたという逸話があります。

1622年 真田信之は信濃国松代藩に10万石で異動となり、沼田城主真田信吉は松代藩の分領として継続します。

1681年 真田信利の時、幕府が沼田藩に発注した両国橋の資材の納期が遅れ、沼田藩の失政もあり改易となり、翌年廃城となります。

沼田藩の薬種御用達の商家であった生方氏住宅があり、国の重要文化財です。

1703年 本多正永が入城し、2万石沼田藩が再興します。その後、本田氏3代→黒田家2代→土岐氏12代続き、1871年廃藩置県で廃藩となりました。

1916年 旧沼田藩士の久米民之助は、私財を投じて沼田城跡を購入し、沼田城公園として整備し寄贈しました。

沼田城から車で坂道(榛名坂)を下りて国道291号線に向かいます。薄根川の橋からは沼田城(捨曲輪辺り)が見えました。大河ドラマ真田丸に思い出しながらの約40分のキャスリングでした。



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