キャスリング 名胡桃城編(続日本100名城)

JR上越線後閑駅から西に3.1キロの所に、名胡桃城跡があります。

車の場合、関越自動車道月夜野インターから西に1.2キロ、3分で名胡桃城跡駐車場です。国道17号線沿いにあるので、分かりやすいと思います。画像の通り、かなりの台数が停められる無料の駐車場です。

1492年 沼田城の支城として、沼田氏により名胡桃館が築かれたと言われています。

駐車場は、般若郭と呼ばれる場所にありました。般若郭は、長さ85m、幅56mで一番大きい郭です。掘立柱建物跡も発見されました。般若郭の向こうには、三郭、二郭が見えます。

1579年 武田勝頼は家臣の真田昌幸に北条氏に対する備えとして、名胡桃城を本格的に築城するように命じました。

国道17号沿いには、名胡桃城跡案内所があります。ここに、続日本100名城のスタンプが置いてあります。分かりやすい縄張りのジオラマがあり、力の入れようがうかがえます。

1580年 真田昌幸は、沼田城の北条方の城代、金子泰清に調略を仕掛け、昌幸叔父の矢沢頼綱が沼田城に攻め入り無血開城させ、沼田城は武田氏のものになりました。

年表や情報が充実しており、ここで勉強していきましょう!縄張りを頭に入れて、キャスリングスタートです!

1582年 天目山の戦いで、武田氏が滅亡し、真田氏と北条氏は沼田周辺の領地争いを繰り広げます。

径20mの円形の丸馬出から入り、堀切を越えて、三の郭に入ります。現在は堀は埋められていますが、復元想像図を見ながら入りましょう。

1587年 豊臣秀吉の惣無事令を発した事により、大名間の争いごとを禁止しました。これにより、真田氏、北条氏や徳川氏などは勝ってに領地争いができなくなりました。

馬出を越えると、64m×26mの三郭(三の曲輪)です。外郭との堀切の幅は12m、深さ5mあり、西側の堀底は般若郭との間の堀(殿坂)とつながっています。

1589年 豊臣秀吉は、沼田領の扱いを裁定し、名胡桃城含めた1/3は真田氏に、沼田城を含めた2/3は北条氏と定めました。真田氏は、減らされた土地の代替地として、長野県箕輪が与えられました。

木橋を渡り、二郭南虎口から二郭に入ります。二郭は65m×50mで掘立柱建物がありました。建物と土塁の間には溝があり、排水設備が整っていました。

1589年 沼田城代の北条氏家臣の猪俣邦憲は、真田氏の名胡桃城代鈴木重則の家臣中山九郎兵衛を寝返らせました。偽の書状に上田城に鈴木重則をおびき寄せている間に、名胡桃城を奪いました。

二郭北虎口は、乱石積みと土塁で囲われクランク状になっています。

名胡桃城を奪われた真田昌幸は、直ちに徳川家康を介して、豊臣秀吉に訴え出ました。

二郭北虎口から木橋を渡り、本郭に入ります。

1590年 惣無事令の違反で北条氏を討伐する大義名分ができたので、豊臣秀吉は北条氏を攻め滅ぼしました。全沼田領は真田氏が安堵され、名胡桃城は廃城になりました。

本郭から下がった所の先端がささ郭です。本郭の外に対する防備として設けた、幅が狭い郭です。

ささ郭の先端には、搦め手門があり、門を出ると袖郭がありました。尾根づたいに下の方まで続いていました。ささ郭から東を見ると、段丘と利根川、上越線が見えます。

ささ郭から南東を見ると、沼田城と沼田市内が見えます。階段や歩道など綺麗に整備されていますが、これが無かったらエライ周りにくい城だった思います。

惣無事令→裁定→小田原征伐→安堵→廃城と歴史の渦に巻き込まれた名胡桃城は、40分のキャスリングでした。



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