キャスリング 九戸城編(続日本100名城)

いわて銀河鉄道二戸駅から北に2.1キロ、26分歩くと九戸城跡があります。

車の場合、九戸城跡エントランス広場・ガイドハウスに無料の駐車場があります。


3月に行ったので、ガイドハウスが閉鎖中でした。続日本100名城スタンプは、二戸市埋蔵文化財センターにもあります。九戸城の案内板を見て、全体像を把握しましょう。ここから時計周りに周る事にしました。

築城年は、1492年~1501年の明応年間になりますが、はっきり分かっていません。

目の前には断崖があり、その上が本丸になります。

南部氏の一族である、九戸氏の九戸政光の時代に築城されたと言われています。空堀と6つの曲輪で構成されています。

時計周りだと左矢印です。反時計周りだと二の丸大手になります。

1591年 城主の九戸政実は、南部信直と対立していました。南部信直は、豊臣秀吉から所領を安堵されていたので、南部信直に対して挙兵しました。これは九戸政実の乱と言われます。

豊臣政権に対しての反乱という意味でもあるので、奥州再仕置き軍として、南部信直、蒲生氏郷、井伊直政、浅野長政、堀尾吉晴等から包囲されます。その案内板があります。

崖沿いを歩くと、石階段があるので上がっていきます。

石階段を上がると堀底道になります。左手が外館(石沢館)になります。さらに東に向かうと若狭館がありますが、時間の関係でカットします。

豊臣秀吉方の奥州再仕置き軍は6万、九戸籠城軍は5千との熾烈な攻防でした。

外館から西(本丸)に向かうと二の丸搦手門跡があり、二の丸に入ります。

二の丸の搦手から堀底道を通り、若狭館、石沢館に通じていました。二の丸から本丸に入る為の橋を渡ります。石垣が見えます。

難攻不落の城を攻める、奥州再仕置き軍は苦戦を強いられ、九戸氏の菩提寺である長興寺の和尚を使者をたてました。手紙には、女、子供の命を助ける事を条件に、降伏するようにと書いてありました。和睦に応じ降伏し、開城しましたが、謀略と知らずに、城内の者はなで斬りにされました。九戸政実も斬首となりました。

本丸追手門から本丸に入ります。西の崖下には、先ほど出発したガイドハウスと駐車場、二戸市が見えます。

一辺100mの本丸は、東と南の2ヶ所の虎口があり、南東、南西、北東の3ヶ所に櫓が配されていました。

1591年 蒲生氏郷によって普請された石垣です。九戸政実の乱の落城後に築かれた石垣である事が判明しました。普請後は、福岡城と改名されましたが、九戸政実を讃えて、今も九戸城と呼ばれています。

本丸の南にある南虎口です。土橋で本丸と二の丸を繋いでいます。1辺約15mの枡形を配し、櫓門の礎石が残っています。

本丸から二の丸に入ると、地形模型があります。西に馬淵川、東に猫渕川、北に白鳥川と三方を川に囲まれた天然の要害である事が分かります。

蒲生氏郷は福岡城と城下町を改修した後、南部信直は三戸城から福岡城(九戸城)に移りました。

1597年 盛岡城の築城により、南部氏の居城は盛岡城になりました。

1636年 福岡城は廃城となりました。

1995年 二の丸大手門近くの掘られた穴から、首の無い人骨十数体分が発見されました。人骨には、刀傷がありなで斬りの犠牲者と考えられています。

南の崖の地層の真ん中には、焼けた木が見え、戦国時代の戦禍が生々しく残っています。

豊臣秀吉の奥州再仕置きにより、ここに天下統一が完成しました。

九戸城を一周して50分のキャスリングでした。これから、埋蔵文化財センターに向かいます。

九戸城跡から南に1.1キロ進んだ所に、二戸市埋蔵文化財センターがあります。ここの3階に、続日本100名城スタンプが置いてあります。

せっかくなので、文化財センターに入ります。入場料は大人50円です。南部氏の九戸氏、三戸南部氏の系図や年表で頭を整理します。

他にも様々な発掘品が展示され、九戸氏は京都、大阪、海外との貿易や交易を行っており、当時はかなりの権勢を誇っていた事が分かりました。



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