キャスリング 盛岡城編(日本100名城)

JR東北本線、東北新幹線盛岡駅から東に1.7キロ、23分歩くと盛岡城跡があります。

車の場合、東北自動車道盛岡インターから東に6キロ、15分で、盛岡城跡公園地下駐車場です。8時~18時までは、30分ごとに150円です。

駐車場から地上に出ると、もりおか歴史文化館があり、ここに日本100名城スタンプがあります。パンフレットも貰えるので、ここで情報収集すると良いと思います。


南北に長い長方形のお城です。もりおか歴史文化館から本丸に向かって、二の丸、三の丸、外周を反時計周りに周って駐車場に戻るルートに決めました。

西に北上川、東に中津川の合流地で丘陵地帯に築城されました。

お城東の鶴ヶ池を渡り、台所屋敷だった多目的広場を右手に歩くと、本丸石垣が見えてきます。

1590年 豊臣秀吉は、小田原征伐に参陣した南部信直の所領を安堵しました。

冠木門跡から虎口になっている本丸門に向かいます。

1591年 南部宗家の争いで、九戸政実の乱が起きました。南部信直は豊臣秀吉方として戦い、九戸政実を倒し、三戸城から九戸城に拠点を移しました。しかし、蒲生氏郷や浅井長政から、九戸は北にあり過ぎると言われ、不来方と呼ばれる盛岡に築城の計画をします。

本丸の南東には、天守台があり、真ん中には南部中尉の銅像台座があります。凌虚亭(りょうきょてい)と呼ばれる天守台には、御三階櫓が建てられ天守の代わりとなっていました。

本丸の真ん中には、南部中尉の銅像台座があります。かつては、南部氏42代目の南部利祥の騎馬像が建っていました。日露戦争の時、満州で戦死し武勲を称えるために建立しました。しかし太平洋戦争で金属を供出する為に無くなったままです。戦争遺跡として残っています。

1598年 南部信直の嫡男、利直に、盛岡城の築城を命じ、内堀伊豆を普請奉行に築城が始まりました。

台座あたりに大奥があり、南西には二階櫓、真ん中に中奥、北東には隅櫓、北西には納戸櫓がありました。本丸と二の丸を繋ぐ、廊下橋門がありました。

1600年 関ヶ原の戦いで、南部利直は東軍につき所領を安堵されます。

渡雲橋と呼ばれる、本丸と二の丸を繋ぐ橋を渡り、二の丸に入ります。大書院と呼ばれる御殿がありました。

1615年 東北の城では珍しい、総石垣の城として完成しました。南部利直は、「盛り上がる栄える岡」との願いを込めて、盛岡になりました。

二の丸には、盛岡藩主南部利剛の側用人を務めていた盛岡藩士の父をもつ、新渡戸稲造の記念碑があります。

お城だけでなく、城下町の整備も行い、中津川以北の湿地帯を埋め立てていきました。

二の丸から三の丸は車門と食い違い虎口になっており、三の丸に入ります。

1633年 盛岡藩3代目藩主の南部重直の時代に、お城全てが完成しました。しかし翌年、失火で本丸を焼失しました。

三の丸の北側は、瓦門と呼ばれるスロープになります。一旦、下におりて階段を上がると烏帽子岩と南部稲荷神社があります。

1659年 南部重直は、良質な砂鉄を元に鉄瓶の製作を始め、南部鉄器の本格的な生産が開始されます。

南部稲荷神社で旅の安全祈願をします。烏帽子岩は見事な大きさです。

1857年 盛岡藩は、奥羽越列藩同盟に加盟し幕府軍として、秋田戦争などで戦います。

西側に周ってみました。高石垣と横矢がかりがあります。

1868年 盛岡藩は新政府軍に全面降伏します。

二の丸と本丸の境目あたりにある三角形の石垣です。上は榊山稲荷曲輪です。

1870年 廃藩置県をの布告を待たずに、財政難から盛岡県が設立されました。

坂下門、スロープ状になっている吹上門があります。

南西角まできました。石垣の下のミニ石垣は、はばき石垣と呼ばれ、石垣の崩壊を防ぐためにあります。そこから南に周ります。

お城の南には、彦御蔵があります。江戸時代後期に建てられたと言われ、土蔵造りの木造二階建ては、米蔵として使われていました。これで東に向かって帯曲輪を通って一周しました。

弘前城から八戸城、根城、三戸城、九戸城を周り、盛岡城にたどりつきました。中世の南部氏の家督争いや九戸政実の乱、近世の戊辰戦争など波乱の時代を越えてきたお城だという事がわかりました。約60分のキャスリングでした。

(おまけ)

もりおか歴史文化館から200mぐらい東に歩くと、重要文化財の岩手銀行旧本店があります。日本銀行本店、東京駅を設計した辰野金吾と盛岡出身の葛西萬司の手で造られました。



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