キャスリング 白河小峰城(日本100名城)

JR東北本線白河駅から北に100mの所に、白河小峰城があります。

車の場合、東北自動車道白河中央スマートインターから南に3キロ、5分ほどで、お城の南にある無料駐車場に着きます。


鎌倉時代に結城氏の祖、結城朝光は、源頼朝から奥州藤原氏攻めの武功で白河領地を与えられました。

1340年 南北朝時代に結城親朝が、東西に長い丘陵地帯の小峰ヶ岡に小峰城を築きました。

小峰城や戊辰戦争の白河口の戦いの案内板があります。

1590年 豊臣秀吉の奥州仕置きにより、白河結城氏は改易となります。蒲生氏郷が会津92万石を与えられ、白河は会津藩領となります。

門や櫓跡の案内板があるので、どのように周るか考えます。

1627年 丹羽長重が棚倉城から異動となり、小峰城に入城します。

二の丸の南入口だった太鼓門跡です。高さ約3.8mの石垣に上にありました。

1643年 榊原忠次が館林藩から入城します。歴代藩主の年表があり分かりやすいです。東日本大震災の被害状況や修復の工程などの看板があります。特に石垣の修復は大変な作業だと思います。

1649年 本多忠義が越後村上から入城します。その後2代続きました。

芝生広場の二の丸と本丸をつなぐ清水門跡です。高さ4.5mの石垣の上に、高さ11m、間口13mの門でした。

1681年 松平(奥平)忠弘が宇都宮から入城します。

震災では、約7千個の石垣が崩れましたが、従来の半円形の石垣の積み方が再現されています。現在の穴太衆の石工職人さんも参加されて修復されました。昔も現在もすごい技術です。

1692年 松平(結城)直矩が山形藩より入城します。その後、3代続きました。

前御門が見えてきました。

1741年 松平(久松)定賢が越後高田藩より入城します。その後、4代続きます。

前御門の右手には、竹之丸跡という曲輪があり、北東に隅櫓、南東に二階櫓がありました。

1823年 阿部正権が武蔵国忍藩から入城します。その後8代続きました。

前御門をくぐります。

前御門をくぐると本丸御殿跡があり、畳で数えると707畳の広さがありました。353坪1166㎡という広大さです。

本丸の南には多門櫓がありました。この下の石垣は震災で崩れた箇所です。西側には、富士見櫓跡、雪見櫓跡があります。

清水門の西側にある桜之門跡です。藩主の居住区に近く、藩主用の出入り口に利用されたと思われます。

本丸を反時計周りでぐるりと周り、天守に向かいます。

天守台には、おとめ桜があります。丹羽長重は、小峰城の大改修を命じられましたが、本丸の一角だけ石垣が崩れてしまい、人柱を立てることになりました。たまたま父に会うためにやってきた藩士の娘が捕えられ人柱になったという伝承です。

高さ13mの三層三階の三重櫓に上がります。入城は無料でした。

入口で靴を脱ぎます。カウンターに、日本100名城スタンプが置いてありました。三重櫓と前御門は、福島県の重要文化財「白河城御櫓絵図」に基づいて木造で復元されました。復元でも木造だと温もりや香りなどが良いですね。

白河城御櫓絵図は、1808年に松平定信が家臣に実測させて図面を起こしたそうです。

1867年 阿部氏が棚倉藩に異動になり、白河藩は幕領となりました。二本松藩の丹羽氏の預かりとなりました。

1868年 戊辰戦争では、棚倉藩(白河藩)が参加した、奥羽越列藩同盟(仙台藩、米沢藩、二本松藩、山形藩、盛岡藩)と新政府軍(薩摩藩、長州藩、大垣藩、忍藩)とが白河口で戦いました。宇都宮城の戦いで勝利した新政府軍は、白河まで北上し東北戦争が始まりました。

階段は急ですが、城といえばこれはつきものですね。上り下りに注意しましょう。

最上階まできました。

最上階から西を見ると那須連山と東北新幹線が見えます。南を見ると本丸と白河駅が見えます。

小ぶりですが端正で上品な三重櫓です。

震災で崩壊し修復された石垣と残った石は、色あいで分かります。

西側の水堀と二の丸の空堀(浅いですが)です。石垣に刻まれた歴史は、戦争と震災でした。しかし復活して再生する力を感じた80分のキャスリングでした。

(おまけ)小峰城から南東に2キロの所に、うどん亭があります。てんぷらうどん350円でボリューム満点でした。※日祝日休みなので注意です。

(おまけ)

白河小峰城から東に5.7キロ、車で15分ほどの所に、有名なとら食堂があります。昔懐かしい醤油らーめんでした。前回は混んでて断念したので、リベンジを果たせました。



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