キャスリング 久保田城編(日本100名城)

JR秋田新幹線、奥羽本線秋田駅から西に350m、5分歩くと千秋公園ポケットパークがあり、久保田城の大手門跡になっています。

車の場合、千秋公園の奥にコインパーキングがあり、案内は後ほど。


久保田城跡は千秋公園となっています。ここから西に向かい中土橋通りに向かいます。

中土橋通りを境目に東側が大手門の堀、西側が穴門の堀になります。中土橋門跡がある中土橋通りをお城方向である北に向かいます。

久保田城跡の石碑と絵図があり、藩校の明徳館の場所が分かります。下中城町の県立美術館がある場所は、梅津小太郎の屋敷がありました。梅津小太郎は、戊辰戦争の秋田口の戦いで新政府軍側で戦いました。

1602年 秋田氏の居城だった湊城に、佐竹義宣が常陸国から入城しました。しかし防御の不備や手狭な事から、標高40mの神明山に久保田城を築城しました。そこから12代佐竹氏は秋田を治めます。

松下門跡を過ぎるとコインパーキングがあり、15台ほど駐車できます。駐車代は30分100円です。

天主閣と石垣の無い城としていましたが、1880年の火災で建物が全焼してしまいました。その後、千秋公園として整備されました。城内地図には跡しかありませんが、なるべく辿っていきたいと思います。

まずは二の丸跡です。ここから長坂と呼ばれる階段を上がります。

階段を上がると、長坂門跡(二の門跡)です。

長坂門跡を過ぎると左手に表門(一の門)(復元)があります。本丸の玄関口として重要な門でした。

表門の下手には、侵入者を警戒する為の「御物頭御番所」があります。久保田城内で唯一、本来の場所に残っている建造物です。

表門に使われた6基の礎石や柱穴などがあり、幅10m近い鏡柱と控え柱、冠木を備えた重厚な門でした。本丸には、久保田藩12代藩主の佐竹義堯の像があります。藩政改革や質素倹約、文武を奨励しました。

本丸跡は、東西117m、南北215mの長方形に盛土や削平にしました。表門をくぐると、政庁が置かれ、中央には本丸御殿が置かれ、土塁の上は多門櫓と板塀で防御され、隅櫓を配し、西南隅には、御出し書院がありました。

初代藩主佐竹義宣や歴代藩主を祀る八幡秋田神社があります。ここで旅の安全を祈願しました。

御隅櫓は盛り上がった土塁の上に築かれています。埋門跡があります。

土塁の上には多門長屋がありました。御隅櫓が見えてきました。御隅櫓は、本丸の北西隅の一番高い場所に建てられました。当時は二階造りでしたが、展望台も兼ねているので大きめに復元されています。

隅櫓の入城料は大人100円、高校生以下は無料です。ここに日本100名城スタンプが置いてあります。

佐竹氏は清和源氏の流れを組み、義光が佐竹氏の始祖と位置付けられています。

久保田藩初代藩主の佐竹義宣は、関ヶ原の戦いの直前に、徳川家康から上杉景勝討伐や人質を出すように命じられましたが、断りました。東軍、西軍どちらにつくかの意思表示を明確にしないまま東軍の勝利に終わりました。

1602年 常陸国から出羽国秋田に異動が決まりました。理由としては、上杉氏との密約や関ヶ原に参戦していないので、兵力が温存され江戸から遠ざけたかったとされています。

佐竹義宣は、家柄などにとらわれず有能な人材を起用し、開墾を進めていきました。また頻発する一揆を抑える為の駐屯地を配し備えました。

新田開発に重点がおかれ、生産された米は、雄物川河口の土崎港から江戸、大坂に運ばれていき財政を安定させていきます。また伏見城改修の木材として使われるほど良質な秋田杉の生産にも力を入れていきます。家老の渋江政光は、「国の宝は山なり」と伐採を制限し、品質にこだわった秋田杉を流通させていきました。

参勤交代では、1350人が2週間かけて江戸に向かいました。大変な道のりですが、街道や宿場町の整備が進みました。

展望室からは、北には明徳小学校と大平山、北西には男鹿半島が見えます。

下に下りて隅櫓を見てみると改めて土塁の上に建てられた事が分かります。

佐竹氏12代が続き明治維新をむかえました。最後は穴門跡によって60分のキャスリングでした。



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