キャスリング 浜田城編(続日本100名城)

JR山陰本線浜田駅から西に1.5キロ、20分歩くと濱田護国神社社務所があります。

車の場合、国道9号線から入る細い道があり、山道を少し上がると無料の駐車場があります。10台ぐらいは停められそうでした。


1619年 古田重治は、大坂の陣の功績により、伊勢松坂藩から石見国浜田に異動となりました。そして、浜田川に囲まれる天然の要害の、標高68mの丘陵に浜田城を築城しました。

濱田護国神社の社務所に、続日本100名城スタンプが置いてあります。まずは護国神社に参拝しました。護国神社の右手側から登城します。

社務所の横や道中に浜田城の案内看板があります。看板を見ると、本丸の北西側に、高さ14mの三層櫓の天守があり、石垣を多く配した堅固なお城だった事が分かります。

1648年 2代目の古田重恒の時に、お家騒動(古田騒動)を起こして改易となります。跡継ぎがいなかった事から起きた騒動でした。

奥に進むと門が見えてきました。元々、津和野城の門ですが、浜田県設置に伴い移築されました。

1615年の一国一城令の後に造られたお城では、明石城、福山城とあります。毛利方や外様大名の抑えが理由です。

遊歩道になっており周りやすいお城です。三の丸から本丸までは、石垣にすべて塀を廻らせており、見せる為のお城としての意味があります。

1649年 松平康映が播磨山崎藩から入城し、その後5代続きます。

三の丸から二の丸に上がる為の二の門です。

1759年 5代目の松平康福が下総国古河藩に異動し、古河藩から本多忠敞が入城します。その後、1769年に松平康福が戻ります。

枡形虎口を上がると本丸です。

1836年 3代目松平康任の時に、清との密貿易が発覚し、4代目康爵は陸奥国棚倉藩に異動となります。上野国館林藩から、松平斉厚が入城します。

約2715㎡の本丸には、塀をめぐらせ、79箇所の狭間ありました。

本丸から北側を見ると正面に外ノ浦が見えます。風待ち港として、北前船の西廻り航路の中継地点として栄えました。廻船問屋が建ち並び、地元特産品の麻糸、干鰯、銑鉄、半紙、塩鯖、焼き物が出荷されました。

1836年に鎖国令を犯して密貿易を行った「竹島事件」の舞台でもあります。

北西方向を見ると、外ノ浦と外海が見えます。入り組んだ入り江の地形も都合が良かったのでしょう。海からは、石垣の上にそびえる三層の天守が立派に見えていたそうです。

南西方向には、浜田市内が見えます。こちらの方に天守が建てられており、城下町が眺められた事でしょう。

1866年 第二次長州征伐で、大村益次郎率いる長州軍が攻めてきて、幕府側の浜田城が焼け落ちました。

本丸の西側には、出丸が突出しています。本丸脇千人溜りとも呼ばれています。

出丸の石垣は、表の石垣はありませんが、石垣の裏にある、裏込め石が露出しています。裏込め石はなかなか見れませんね。護国神社近くまで下りて、焔硝蔵の曲輪に行きます。

御本丸道と呼ばれる幅9mの道が本来の登城ルートでした。火薬を保管する焔硝蔵が建ち、安全の為に他の建物はありませんでした。第二次長州征伐で焔硝蔵は爆発しました。

日清戦争で戦死した、木口小平の像があります。「シンデモラッパヲクチカラハナシマセンデシタ」で修身教科書で掲載された英雄でした。

石見銀山と長州への監視役という意味で、幕府として重要な地でありましたが、その長州に滅ぼされる運命をたどった事が分かりました。約30分のキャスリングでした。

(おまけ)北前船の廻船問屋で栄えた浜田の海の幸を頂きたくなりました。浜田城から西に2.4キロ、車で8分ほど走ると「めし処ぐっさん」があり、炙り鯖定食を頂きました。美味い!浜田漁商協同組合の2階にあり、入るのに躊躇するかもしれませんが、いたって普通のお店です。



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