キャスリング 新発田城編(日本100名城)

JR羽越本線新発田駅から北西に1.8キロ、23分歩いた所に、新発田城があります。

車の場合、新発田城址公園の無料駐車場があります。車は10台ぐらい置けそうです。

駐車場からキャスリングスタートです。広い芝生の城址公園の向こうに三階櫓が見えてきました。事実上の天守ですが、外様大名という事もあり「櫓」という事にしていました。

地元の方から、左の方から見た方がいいよと教えて頂きました。なるほど確かに、新発田城の特徴である3つの鯱がバランスよく見えます。左側の壁の向こうは、陸上自衛隊柴田駐屯地の敷地です。三階櫓は自衛隊基地の敷地なので、外から見るだけです。

鯱は、(阿形2つ、吽形1つ)です。

日本100名城の石碑が誇らしげです。東に移動して、現存の二の丸隅櫓を見てみました。三階櫓から辰巳櫓まで約350mの石垣が続きます。

堀沿いを東側に歩いて行くと、虎口らしきS字カーブがあります。かつてS字の所には、薬医門形式の土橋門がありました。、番所を過ぎて帯曲輪に入り、木橋を渡り表門だったようです。

築城年は不明ですが、鎌倉時代の佐々木盛綱の系統の新発田氏により築城されたと言われています。

土橋門辺りからの二の丸隅櫓(鉄砲櫓)です。

表門の向かいには、お茶屋と新発田出身の赤穂義士の堀部安兵衛の像があります。高田馬場の決闘で助太刀し、その後赤穂事件にも参加しています。

1581年 上杉氏の家臣だった新発田重家が上杉景勝に反乱を起こしました。理由として、御館の乱の際、上杉景虎方の三条城の攻略や蘆名氏撃退などの戦功が認められなかった事があげられます。しかし、景勝の攻撃により新発田城は落城し、新発田氏は滅亡しました。

現存の表門、現存の二の丸隅櫓、復元の辰巳櫓は、4月1日~11月30日 9:00~17:00 まで無料で公開されています。(2019年は3月17日からでした。)

1597年 豊臣秀吉の五大老の上杉景勝は会津に異動となり、加賀藩大聖寺城から溝口秀勝が6万石で入城します。

表門の赤い家紋は、溝口氏の五階菱です。現在は、新発田市の市章になっています。

1600年 関ヶ原の戦いで、溝口秀勝は、東軍に属し上杉遺民一揆の平定した事で所領を安堵され、新発田藩初代藩主となります。

表門が開門され一番槍で入城します。

表門をくぐると初代藩主の溝口秀勝の像があります。沼などの多い湿地帯を開墾、治水し、蒲原平野として干拓しました。

新発田藩溝口氏は12代続き明治維新をむかえました。8代藩主の溝口直養は藩校の道学堂を造り、学問を奨励しました。

右手の辰巳櫓手前には、打ち込みハギの石垣の内部構造が展示されています。栗石などあまりお目にかかれないですね。二層二階の復元された辰巳櫓の中に入れます。

鯱や新発田城の模型があります。本丸には、表門と裏門があり、鉄砲櫓、三階櫓、折掛櫓、辰巳櫓が配され、二階建ての本丸御殿がありました。

辰巳櫓の二階部分です。ヒノキと杉をふんだんに使った木造の復元天守は木の良い香りが漂っています。

辰巳櫓から見た新発田城は半分が自衛隊の敷地です。廃藩置県後は歩兵第十六連隊の兵営だったのでその名残でしょうか。

石階段を上がり表門に入ります。桁行16m、梁間5.4mで1732年に再建され、腰回りは海鼠壁仕上げになっています。

表門の内部は、昔の新発田城の写真や歴代溝口氏の絵があります。

戊辰戦争の際には、奥羽越列藩同盟の圧力で加盟しましたが、新政府軍に合流し新発田藩は、戦火を免れました。

西側には、旧二の丸隅櫓があります。桁行10m、梁間8mの二層二階櫓で、1668年の火災後に再建されました。元々は本丸鉄砲櫓の跡地に移築されたものです。

美しい海鼠壁ですが、装飾的な意味だけでなく、耐火や雨水を防ぐ役割があります。

二の丸隅櫓も中に入れます。

四方が沼や湿地帯だったので、自然の防備に優れた平城でした。外様大名でしたが、江戸時代の270年間一度も改易や異動する事なく続いたのは、治水、新田開発、教育、福祉などに力を入れた名君だったからでしょう。家紋が市章になっているのが物語っています。約50分のキャスリンでした。



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