キャスリング 箕輪城編(日本100名城)

JR高崎線(上越新幹線)群馬八幡駅から北に7キロの所に、高崎市箕郷支所があります。高崎駅からは、バスが出ています。

車の場合、箕郷支所の受付窓口(8:30~17:15)に、日本100名城スタンプが置いてあります。土、日の場合は、裏口に周ります。パンフレットも頂けます。


箕輪支所から北に2キロに所に、箕輪城跡駐車場があります。広大で綺麗なトイレがある無料駐車場です。

榛名山の南東の丘陵に築かれた平山城は、南北に細長く、東側の搦手馬出しからキャスリングスタートです!

1512年 上杉氏、長尾氏の家臣で、この地を支配していた長野業尚が築城しました。

南から周るので二の丸に向かいます。

相模の北条氏、甲斐の武田氏が侵攻してきましたが、長野業政はたびたび退け名君と謳われました。二の丸は長野業政の幟があります。

1561年 長野業政が亡くなると、武田信玄は再度侵攻し、近隣の城を落城させ箕輪城を孤立させていきます。

二の丸の南には、大堀切と土橋があります。土橋を渡ると郭馬出です。

1566年 武田信玄の侵攻で、上杉謙信の援軍を待っていましたが間に合わず、箕輪城は落城し、長野業盛は自刃しました。その後、武田氏は箕輪城を上野支配の拠点にしていきます。

武田氏家臣の甘利昌忠、真田幸隆、浅利信種が城代に任じられました。

土橋から見る大堀切は、幅と深さがあり迫力があります。

1570年 内藤昌豊、内藤昌月が城代となりました。

郭馬出西虎口門をくぐり南に向かうと木俣曲輪があります。家臣団の屋敷地の一つとされ、少なくとも3棟の掘立柱建物がありました。

1582年 武田氏が天目山の戦いで滅亡すると、織田信長会家臣の滝川一益が入城しました。ししかし、織田信長が本能寺の変で討たれると、北条氏政と氏直が侵攻し、神流川の戦いで勝利し、北条氏邦が入城します。

木俣から北に戻り、復元された西虎口門を見てみます。

井伊氏の時代に造られたとされ、城門の中では幅5.7m、奥行き3.5mと最大規模でした。8石の礎石が発見され、二階建ての櫓門と推定されています。

1590年 豊臣秀吉の小田原征伐で、上杉景勝と前田利家は箕輪城に侵攻し、開城しました。

改めて西虎口門から大堀切と土橋を見てみます。土橋は、数時期にわたり改修が行われた事が分かりました。

1590年 徳川家康が関東に入封し、家臣の井伊直政が12万石で入城し、近世城郭に改修していきました。

二の丸の西には三の丸があり、3時期の改修が分かりました。長野氏、武田氏時代は、屋敷地。北条氏時代は、鍛冶場。井伊氏時代は石垣を築いています。

三の丸の北には蔵屋敷という曲輪があり、蔵屋敷から東に本丸が見えます。橋を架ける工事が行われていました。また二の丸に戻り、本丸に向かいます。途中で、シール式の日本100名城スタンプと箕輪城のチラシがありました。こういう心づかいは嬉しいですね。

本丸南堀を左に見ると本丸門馬出しです。

馬出しを越えると箕輪城本丸になります。南北100m、東西70mで東側には土塁が築かれていました。

本丸の北には、本丸の詰めの御前曲輪があります。

御前曲輪の北は堀になっており、階段を下ります。

御前曲輪の北堀は、稲荷曲輪、玉木山、通仲曲輪とつながっています。

1598年 井伊直政は高崎城を築城し、箕輪城は廃城となりました。箕輪城下に直政が創建した恵徳寺の和尚が伝えた言葉から高崎という地をつけたそうです。箕輪から町や寺を高崎に移し、現在の高崎の礎が築かれました。

御前曲輪の北堀から東に向かい駐車場にもどります。途中の新曲輪、稲荷曲輪を見て、約半周の50分のキャスリングでした。



シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする