キャスリング 与板城編

JR信越本線押切駅から西に12キロの所に、与板城があります。

車の場合、北陸自動車道中之島見附インターから西に11キロ、18分ぐらいで与板城跡駐車場に着きます。


駐車場は15台ぐらい停められそうでした。駐車場の横には、直江兼続公館跡地があります。

駐車場から登城口の八坂神社まで歩いて3分です。

登城口の階段下には、駐車場案内板や戦国時代の地名が残っている案内板があります。

築城年は不明ですが、天正年間に上杉謙信の重臣である直江景綱の時代に築城されました。

登城口には与板城のパンフレットがあります。情報が少ないので、ありがたいですね。

石階段から本丸まで450mで歩いて15分ぐらいです。パンフレットと一緒に縄張り図もあり、堀や曲輪などを把握し、キャスリングスタートです!

直江景綱、信綱、兼続の3代にわたり、本与板城(与板城から北に約2キロ地点)と与板城を築き、居城としていました。

ちょっと分かりにくいですが、竪堀の看板がありました。

直江信綱の時に、御館の乱が起きました。御館の乱とは、上杉謙信死後の家督争いです。上杉謙信の養子の上杉景勝と上杉景虎の戦いでした。直江信綱は、上杉景勝側につきました。

堀切がある林の中を歩きます。5月以降は虫の季節なので、虫よけスプレーなどを常備ですね。

歩いて10分弱で「おせん清水」があります。

お船(おせん)は、直江信綱の妻でした。しかし御館の乱後、夫である直江信綱は、領地争いで毛利秀広に殺害されました。直江氏を断絶させない為、上杉景勝は家臣の樋口兼続を直江氏の当主として存続させました。お船は樋口兼続と再婚し、直江兼続と改めます。

この清水でお茶を点てたと言われています。

おせん清水は下の方にありますが、倒木などで近づけませんでした。

直江兼続の兜文字「愛」の巣箱がありました。本丸に向かう途中に門跡があります。

本丸まであと100mです!案内板が充実しているのでありがたいです。

八坂神社側からの登城路と大手口からの登城路を合流して、本丸に到着です。

本丸から南東の方には、長岡市内が見えます。

本丸には、縄張り図があります。南に向かうと二の郭、三の郭があります。

1598年 上杉景勝が越後から会津へ120万石で異動となり、直江兼続は6万石で出羽米沢に異動となり、与板城は廃城になりました。

米沢に移る際に、直江兼続が植えたとされる一本杉があります。

1600年 謀反の疑いをもたれた上杉景勝に上洛するように命じましたが、それを拒否し皮肉めいた内容の直江状を出しました。徳川家康を怒らせ関ヶ原の戦いの遠因となった会津征伐を引き起こしました。(諸説あります)

本丸にある与板稲荷神社です。

1600年 会津征伐に向かった徳川家康ですが、石田三成の挙兵で進路を変えて、関ヶ原に向かいます。家康は、南部利直、秋田実季、戸沢政盛などを山形に集め、最上義光を東軍の大将にし、西軍の大将に直江兼続(上杉軍)として、北の関ヶ原と呼ばれる慶長出羽合戦を繰り広げます。

本丸と二の郭との間には、堀切があります。

関ヶ原の戦いで東軍が勝利し、直江兼続は自害しようとしますが、前田利益(慶次)に諌められ撤退します。結果的に、上杉景勝は会津庄内地方を没収され米沢に減封となりました。

堀切を上がり二の郭(二の丸)です。

1601年 直江兼続は上杉景勝とともに上洛し、徳川家康に謝罪と忠誠を誓いました。それを機に直江重光と改名し、米沢の治水と新田開発、商工業の発展に寄与しました。

さらに二の郭と三の郭との間に堀切があります。

三の郭の南には、さらに大堀と兵溜りがありますが、今回はここまでです。

直江兼続の主君に対する忠誠と男気を感じた40分のキャスリングでした。



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