キャスリング 前橋城編(関東7名城)

JR両毛線前橋駅から北に2キロ、25分歩いた所に前橋城跡があります。

車の場合、前橋県庁の駐車場か、周りに幾つかコインパーキングがあります。今回は、群馬県中小企業会館横のコインパーキングを利用しました。(60分200円)


群馬県庁、群馬県警察本部の横には、前橋城復元図の案内板があります。その看板の横に土塁があります。復元図を見ると県庁と県警本部が本丸でした。

15世紀末の室町時代中期に、箕輪城主長野氏一族の長野方業(まさなり)の支城として石倉城を築いたのが始まりとされています。 しかし、利根川の氾濫で石倉城の本丸などが崩壊し、残った三の丸に厩橋城を再築しました。

土塁を北に向かうと、前橋城跡の碑 入口があり土塁に上がれます。

1551年 相模の北条氏が北上し、越後の長尾景虎(上杉謙信)が南下し、厩橋城の奪い合いとなりましたが、1560年に長尾景虎が小田原を攻めて厩橋城を奪回しました。

土塁の上には、前橋城址碑と解説看板があります。

1563年 相模の北条氏、甲斐の武田氏連合軍が、厩橋城を攻めて奪回しましたが、上杉氏に奪還され、上杉氏家臣の北条高広(※きたじょうたかひろ 相模の北条系ではありません)が厩橋城城代となりました。

土塁を見た後、北にある前橋公園に向かいました。

1569年 甲斐の武田氏に対抗する為、相模の北条氏と越後の上杉氏は軍事同盟を結びました。(越相同盟)これにより厩橋城は上杉氏の城となりました。しかし上杉謙信が亡くなると、武田勝頼が厩橋城を奪いますが、武田勝頼が織田信長に滅ぼされると信長家臣の滝川一益が入城しました。

1582年 織田信長が本能寺で討たれ、滝川一益と北条氏直との戦い(神流川の戦い)で北条氏が厩橋城を奪還します。しかし1590年の豊臣秀吉の小田原征伐で北条氏が滅亡すると、秀吉家臣の浅野長政が厩橋城を攻め落とし、徳川家康の関東入封とともに、家康家臣の平岩親吉が3万三千石で入城しました。

短期間で歴史が目まぐるしく動いた時期ですね。

1601年 関ヶ原の戦いの後、平岩親吉は甲府城築城で異動し、酒井忠重が3万3千石で入城しました。忠重は三層三階の天守を造りました。その後厩橋は前橋と改名されます。

高い建物が群馬県警です。そこから西側を見ると利根川が流れ、前橋城は段丘上の台地に建てられた事が分かります。しかし利根川が段丘を浸食し、前橋城は本丸を移転することを余儀なくされます。

時代は変わって、前橋公園に群馬県初代県令の楫取素彦、吉田松陰の妹で妻の楫取寿子、富岡製糸場の生糸の輸出の拓いた実業家の星野長太郎と弟の新井領一郎の像があります。

前橋公園から南東に600m、8分歩くと前橋城の車橋門跡があります。

時代は戻って1749年 酒井氏が姫路に異動になり、入れ替わりで松平朝矩が入城します。途中で川越藩となり陣屋が設置され、前橋城は破却されました。

領主がいなくなり、多くの領民は再興を松平氏に願い出ます。横浜市の開港で生糸の輸出がさかんになり財政が良くなると、1863年前橋城が再築され松平直克が入城しました。

前橋城の数少ない遺構として車橋門の石垣が残っています。

前橋城完成の半年後に大政奉還、廃藩置県となり、本丸御殿は県庁となりました。その後、楫取素彦達の活躍で、質の高い生糸の輸出などで殖産興業と群馬県の基礎を造りました。

2015年の大河ドラマ「花燃ゆ」を思い出した40分のキャスリングでした。



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