キャスリング 石垣山城編(続日本100名城)

JR東海道本線早川駅から西に約2キロ、40分歩くと石垣山城(一夜城)の駐車場があります。比高差約200mほどの上りになります。

車の場合、一夜城下通りを曲がり、上り坂を上がると一夜城駐車場があります。


駐車場までは、上り坂がきつく道もせまいので注意して下さい。標高がどんどん上がり、小田原市内の見晴がよくなっていくのが分かります。

一夜城駐車場には綺麗なトイレがあります。そこの入口に、続日本100名城のスタンプとパンフレットが置いてあります。(スタンプ設置時間は、8時~17時だそうです)

隣には、ヨロイヅカファームがあり、パティスリーとマルシェがあり楽しめます。

駐車場から道を挟んで、すぐに登城口があります。登城口の手前には石垣の石が置いてあります。江戸城修築の際には、石垣山西側が石丁場(石切り場)でした。熱海と伊東とともに江戸城石丁場としても国指定史跡になっています。

まずは、北側の井戸曲輪に向かいます。途中にも立派な石垣が見れます。

井戸曲輪の手前には、二の丸にあたる馬屋曲輪があります。強固に固められた野面積みの石垣は、築城当時の姿を保っており高度な技術がうかがえます。

石垣山は本来、笠懸山(松山)と呼ばれていました。

1590年 豊臣秀吉は、北条氏を討つべく小田原征伐を開始します。当初、本陣は箱根湯本の早雲でした。しかし周囲9キロの総構えの小田原城を攻略するのは時間がかかると判断し、長期戦の体制を整える為に、笠懸山に石垣山城を築きます。

3月1日に京都を出発し、4月6日に早雲寺に陣地を構え、5月14日に石垣が完成、6月26日には石垣山城に本陣を移すという仕事の早さでした。

石垣山城北側の二の丸櫓台跡と井戸曲輪です。現在(2019年6月)は井戸曲輪修復工事の為、立ち入り禁止でした。(工事は2019年9月10日までと看板に書いてありました)

石垣山城の縄張りは不明ですが、黒田長政、もしくは黒田官兵衛が普請した肥前名護屋城と酷似しており、黒田官兵衛は小田原征伐に参陣しているので、もしかしたらですね。

石垣山城の縄張りは謎に包まれ、歴史のロマンですね。想像するのもまた楽しです。二の丸の本丸登城口から上がっていきます。

本丸には、案内板があり、東から徳川家康、南の海側から長宗我部元親、西から池田輝政、北から蒲生氏郷に包囲され、小田原城を見下す所に石垣山城があるので、観念するかもしれません。

石垣山城からは、小田原市内が一望できます。画像の左下側に小田原城が見えるでしょうか?小田原より東(向こう側)は北米プレート、西(手前の石垣山城側)はフィリピン海プレートで、プレートの境界線である事が地形からも分かると思います。

1590年 6月26日に石垣山城に本陣を移してから、鉄砲で一斉射撃を小田原城にむけて開始します。しかし武器の威力ではなく、錚々たる大名を付き従え、総石垣の城をたやすく造る権力と財力が北条氏を降伏へと導びきました。

本丸の奥(北西側)には小高くなった所が天守台跡です。

西曲輪跡からは、本丸の石垣が良く見えます。

1923年 関東大震災(小田原地震)の発生で大半の石垣が崩れました。それもまた歴史です。

今回は、反時計回りに井戸曲輪(ロープごしに)→二の丸→本丸→西曲輪→南曲輪と周りました。綺麗に整備され気持ちよく周れます。

北条氏に権威を誇示する為に造られた石垣は、溶岩系の安山岩である事が分かります。地球の変動の歴史に北条氏が小田原城下を発展させ、地形を活かして北条氏を追い詰めた豊臣秀吉との攻防が分かった30分のキャスリングでした。



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