キャスリング 三春城編(続日本100名城)

JR磐越東線三春駅から東に2.1キロ、30分歩くと三春城跡があります。

車の場合、磐越自動車道郡山東インターから東に7.6キロ、13分ぐらいで駐車場に着きます。

駐車場は2ヶ所あり、どちらも無料に駐車場で10台ずつ停められそうです。今回は本丸に近い上側の駐車場に停めました。


築城時期は不明ですが、16世紀初頭に田村義顕が郡山市の守山城から三春城に拠点を移したとされています。豪族の田村氏は、坂上田村麻呂の子孫と言われていますが、諸説あります。

駐車場から階段を上りキャスリングスタートです!ほどなく上がると矢倉跡の案内があります。地図によると本丸北側の搦手門側からの登城です。

黒川城の蘆名氏、小高城の相馬氏、米沢城の伊達氏、常陸の佐竹氏など周りは有力豪族に囲まれていたため、相馬氏の娘を正室に迎え、田村清顕の愛姫を伊達政宗の正室として送るなど、同盟関係を結ぶなどして領地を保ってきました。

本丸が見えてきました。左側には、蒲生氏時代の石垣があります。

1588年 伊達政宗は田村氏と手を組み、相馬氏を一掃しました。田村宗顕を城主としましたが、豊臣秀吉の小田原征伐で参加しなかったので、改易されました。田村宗顕は放浪の後、白石城主の片倉重長に仕えました。

裏門と言われるあたりをくぐり、二の丸に着きました。二の丸の看板ですが、案内地図では本丸になっておりまだ解明されていないか、後から判明したのでしょうか。

1590年 豊臣秀吉の奥州仕置きで、会津の蒲生氏郷の領地に組み込まれ、若松城の支城となります。蒲生氏の重臣は三春城代となり、石垣や城下町の整備を行いました。

本丸は広く、長屋や三階櫓があったようです。

1627年 蒲生忠郷が没すると、会津に入った加藤嘉明三男の加藤明利、嘉明の娘の子の松下長綱が城主となりました。

現在の三春城の原型は、松下氏時代の頃に整備されたものです。

本丸広場のあずまやには、続日本100名城スタンプとパンフレットが置いてあります。時間に関係なく頂けるのは、大変ありがたいです。

1644年 松下長綱が改易となり、常陸宍戸藩から秋田俊季が入城しました。

本丸の南側には大門跡の札があります。こちらが大手門だったようです。

秋田氏が11代続き明治維新をむかえました。

本丸からさらに一段上がると風呂屋と推定される曲輪があります。

戊辰戦争の際には、奥羽越列藩同盟に入りますが、隣の棚倉藩が官軍に落とされると板垣退助と会談して無血降伏し、城や城下町の焼失、賊軍のそしりから免れました。

さらに上がると一番高い曲輪があり、台所、広間、御座の間あったとされています。

秋田家の祖先を祀る石碑があります。秋田氏は出羽国北部(秋田県能代市)で権勢をほこった安東氏の末裔です。

本丸の一番高い所には大広間跡などがあり。眼下には三春の町並みが見えます。標高408mの大志多山の頂上から下を見ると、断崖絶壁になっており丘陵を活かしたお城になっています。

本丸の周りをぐるりと周ってみると天然の要害である事が分かります。

二の門、番所、城坂を下る途中には竪堀らしきものが見えました。

城坂を下った県道40号線を西に200m進むと、三春藩の藩講所表門があります。

明徳門と呼ばれる門は、三春小学校の校門として移築されています。三春藩藩主の秋田氏により明徳堂と称して藩校が設立され、学問武芸の教授にあたりました。

東北の有力勢力に囲まれながらも、数々の時代を潜り抜けてきた三春城は、50分のキャスリングでした。



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