キャスリング 鶴ケ岡城編(続日本100名城)

JR羽越本線鶴岡駅から南に2キロ、25分歩いた所に旧致道館、鶴ケ岡城跡があります。

車の場合、城跡の周りに幾つか無料の駐車場がありますが、今回は旧致道館の南にある駐車場に停めました。ここからなら旧致道館を見てから城巡りできます。


庄内藩校の致道館は、庄内藩七代目藩主の酒井忠徳(ただあり)が創設しました。開館9:00~16:30で入館は無料です。鶴ケ岡城の歴史も学べるので、まずここに寄るのが良いと思います。

致道館の中は、城下町絵図や史料が充実しています。他にも孔子を祀る聖廟があります。論語の一節から致道館と名付けられています。「君子学んで以て其の道を致す」

鶴ケ岡城の城下町絵図や「敬天愛人」の書があります。なぜ西郷隆盛の敬天愛人が?と思いましたが、その後分かりました。

致道館は、荻生徂徠の徂徠学を本旨とし、各人の能力に応じた少人数制の指導法でした。他にも、庄内藩の幕末の様子が特に描かれています。

戊辰戦争で庄内藩は、豪商本間氏に資金援助を受け、最新式兵器を購入できた事でほぼ負けなしで新政府軍と戦いました。

1868年 戊辰戦争終結後、会津藩は解体され流刑なりましたが、庄内藩は西郷隆盛により寛大な処置(所領安堵)になりました。11代目酒井忠篤は、藩士78名とともに鹿児島入りし交流を深めた事で、庄内藩士により「南洲翁遺訓」まとめられました。

致道館をあとにして、鶴ケ岡城に向かいます。南側の中ノ橋側から入城します。

鶴ケ岡城の前身は大宝寺城と呼ばれ、鎌倉時代の地頭の大泉氏が築城したのが始まりとされています。

1580年頃 この地域は、上杉氏と最上氏の争いの地となりましたが、1588年上杉景勝が支配しました。

荘内神社に続日本100名城スタンプが置いてあります。内堀の橋を渡ると当時は本丸中門がありました。

1590年 検地に対する一揆が起き、直江兼続は越後兵を大宝寺城に常駐させ警備しました。

1600年 関ヶ原の戦い後、上杉氏は会津120万石から米沢30万石に減封され、山形城を拠点にしている最上義光が治めました。酒田の亀ヶ崎城の名前にあやかり、鶴ケ岡城と改称しました。

本丸御殿玄関跡から居館となっていました。

1622年 最上氏後継者問題のお家騒動(最上騒動)で改易となり、信濃松代城から酒井忠勝が入城し、近世城郭に改修、城下町の整備を行いました。その後12代、250年庄内藩を治めました。

荘内神社は、徳川四天王の一人である酒井忠次と酒井家二代目家次、三代目忠勝、九代目忠徳が祀られています。社務所に続日本100名城スタンプが置いてありました。

1767年 七代目酒井忠徳は、藩財政を立て直す為、酒田の大地主の本間氏の協力のもと借金を全て返済し、農村復興や致道館の創設に尽力しました。

荘内神社から北西方向に向かうと、本丸御角櫓跡があります。二重櫓が天守閣として代用され、そこからは内堀が見えます。北側に周ると外堀と二の丸があります。現在は道が通っていますが、当時は土塁が続いていました。

1840年 八代目忠器(ただかた)の時、養蚕業など殖産興業に尽力し財政が好転しました。時の川越藩主松平氏は財政が良くなった庄内藩への異動を希望し、酒井氏を長岡藩へ、長岡藩の牧野氏を川越藩のコンバートしようとしましたが、庄内藩の領民が江戸へ直訴の行き、酒井氏の異動は取り下げられました。酒井氏が地元領民から慕われている事がよく分かる事件でした。(天保義民事件)

内堀を渡ると二の丸になり二の丸の外には外堀があります。当時は外北門がありました。

1868年 会津藩ととともに奥羽越列藩同盟の中心勢力となった庄内藩は、戊辰戦争の最後まで新政府軍と徹底抗戦しましたが、ほぼ無敗のまま降伏しました。しかし、西郷隆盛との関係により酒井氏は庄内藩に復帰しました。それは先ほどの致道館で分かります。

現在でも鶴岡市と鹿児島市が兄弟都市になっています。

東の大手門側の二の丸と本丸の間は現在内堀、外堀が無くなっており、荘内神社の参道になっています。

上杉氏、最上氏、酒井氏を経て、現在の鶴岡や庄内地方の歴史が学べた90分のキャスリングでした。



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