キャスリング 三沢城編

JR木次線出雲三成駅から西に5.4キロに所に三沢城跡があります。

車の場合、三沢城の拠点施設(旅館でもあります)みざわの館を目指して下さい。車を置くスペースがあり、横には登山口があります。みざわの館のおじさんがパンフレットを三沢城のパンフレットをくれました。


1302年 信濃源氏の飯島為長は、承久の乱の功績により三沢荘を与えられ、砂鉄の採取、タタラ製鉄で力をつけていきます。

三沢の館の前に案内看板があるので、城の全体像を掴みましょう。3方向の尾根上に築かれた城だと分かります。

1305年 島根半島まで一望できるこの山(要害山)に三沢城を築城し、三沢氏を名乗ります。

本丸まで20分の道のりですが、登り始めて2分で奥に石垣が見えました。

1509年 三沢為忠は横田に藤ヶ瀬城を築き移りましたが、三沢城にも城番を置いたそうです。

武骨で立派な大手門石垣です。ここまで来たら本丸まで190mです。

1540年 三沢為幸は三沢十勇士を引き連れ尼子氏に加勢し、毛利氏の吉田城を攻撃しますが為幸が討死しました。

大手口、水の手口、萩森口の3つのルートが二の丸でつながります。迷路石垣という名の石垣群ですが、名前の意味は分かりませんでした。

1558年 三沢為清は尼子晴久に従い、毛利氏攻めに出陣しました。

七曲がある事で敵を翻弄し攻撃しやすくします。

1560年 三沢氏は毛利氏に従い、尼子氏の高尾城、馬木矢筈城を攻め落城させました。

左手の本丸と右手の鳥居丸を隔てる本丸城壕があります。鳥居丸には諏訪社壇と古井戸があります。三沢氏の故郷である信州の諏訪神社をここに祀りました。

1566年 三沢為清、為虎は、毛利氏に従い月山富田城を攻撃しました。尼子義久の富田城は落城し開城となりました。

鳥居丸から一段下がった所が北ノ郭です。

1578年 三沢為清、為虎は、織田氏、尼子再興軍の上月城を攻撃し、奪還しますがまた奪われます。(上月城の戦い)三木城の別所氏が毛利氏についたので、織田氏、毛利氏の戦いの最前線は、上月城から三木城へと移っていきました。

次は本丸に上がってみます。標高418mの要害山から北側には島根半島などが見えます。

1581年 備中高松城の戦いで、三沢氏は毛利氏方として援護しました。

1589年 三沢氏の勢いに恐れた毛利氏の甘言により、三沢城に帰城させず毛利氏家臣として長州厚狭郡の1万石を与えました。三沢氏は、小田原征伐や朝鮮出兵にも参加し長府藩の代々家老として明治維新を迎えました。

亀に似ている亀岩があります。別名は亀嶽城とも呼ばれています。

時代の流れに乗り、時には逆らいながらも現在でも子孫がいる三沢氏の生き様が分かった60分のキャスリングでした。

(おまけ)

三沢城の別名亀嶽城と呼ばれる通り、東に10キロ、車で20分の所に木次線の亀嵩駅があります。駅中で出雲蕎麦が食べられます。

松本清張「砂の器」の舞台にもなった昔懐かしい風情が残る駅舎は、いつまでも残っていてほしいです。



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