キャスリング 備中松山城編(現存天守12城・日本100名城・日本三大山城)

JR伯備線備中高梁駅から北に4.5キロ80分歩いた所に備中松山城があります。

車の場合、岡山自動車道賀陽インターから西に10キロ、20分で城見橋駐車場に着きます。駐車場に車を停めてシャトルバスでふいご峠まで行きます。(往復400円)

城見橋駐車場までの道のり画像です。国道180号線からだと、川端町の交差点を曲がり伯備線の踏切を渡ります。道が狭いので注意して下さい。

国道180号線から5分ぐらいで城見橋駐車場に着きます。ご覧の通り広大な駐車場です。

平日ですと、(鞴)ふいご峠まで直接行けます。道が狭いので注意して下さい。

ふいご峠は5台ぐらいの駐車スペースでした。

ふいご峠から天守まで30分歩きます。運動靴やトレッキングシューズが良いと思います。それではキャスリングスタートです!

中太鼓櫓跡が見えてきました。何もない山道の中に石垣が現れるとテンション上がりますね。登城心得通り、足元に気をつけながら歩きましょう。

ここが山道の中間地点です。

スタートして30分・・・真田丸のオープニングの音楽が頭に流れました。それにしても美しい!大手門跡から入城します。

標高430mの臥牛山に、1240年秋庭三郎重信が最初に城を築いたとされています。日本三大山城の一つです。(①奈良県高取城②岐阜県岩村城③岡山県備中松山城)

石階段を上がりと大手御門跡になります。

大手御門を上がると二の平櫓跡です。

二の平櫓跡から三の平櫓跡まで土塀が続きます。

三の平櫓跡の右手には足軽番所跡があり、ここが三の丸になります。三の丸の奥は上番所跡です。

先ほどの土塀は、天守、二重櫓とともに重要文化財となっています。

二の丸に向かう石階段を上がると黒門跡です。

さらに奥には厩門跡と厩曲輪があります。三の丸と二の丸の中間地点です。

厩曲輪の右手に四の平櫓跡があります。

石階段を上がると二の丸櫓門跡です。

二の丸櫓門跡の右手には雪隠(トイレ)跡があります。

1240年 鎌倉時代には、秋庭重信が地頭となり、大松山城を築きました。

1331年 南北朝時代には、高橋宗康が小松山城まで城を拡張しました。その後、上野氏、庄氏、三村氏と続きました。三村元親の時代には、大松山、小松山を合わせた巨大城塞になりました。

広い二の丸に着くと、霧の中に天守が見えてきました。

1574年 三村元親は、毛利氏から離反し織田信長方につきました。そこから備中兵乱と呼ばれる毛利氏との攻防が始まります。その後、毛利方の小早川隆景に備中松山城を落とされ、毛利氏の領有となりました。

ただ本丸、天守には行かず、搦手門跡に向かいました。見上げると本丸の二重櫓(重要文化財)が岩の上に鎮座しています。

1600年 関ヶ原の戦いで毛利氏は減封となり、徳川幕府は、小堀正次、政一(遠州)を備中松山城番としました。

端っこにある十の平櫓跡から北に400m~600m進むと、天神の丸跡、大松山城跡があります。今回は体力的に断念しました・・・。

1617年 池田長幸が入城しましたが嗣子が無く、1641年福山藩主の水野勝成の家臣が城代となりました。

また機会があれば大松山城、天神の丸跡を取材します。備中松山城は、何回行っても良い城です。

1642年 水谷勝隆が入城し、水谷氏の代で現在の城が完成しました。

北から南の二の丸に戻り石階段を上がると、本丸南御門があります。天守の入城は大人300円です。100名城スタンプも置いてあります。

1693年 水谷氏は断絶し、赤穂藩主浅野長矩の家老大石良雄が城番となりました。

本丸南御門の左手には六の平櫓跡、七の平櫓跡、八の平櫓跡が続きます。

1695年 安藤重博が入城します。

左の写真は、土塀の奥に天守が見えます。右側の写真は本丸にある重要文化財の二重櫓です。天守には籠城戦を想定して囲炉裏などがあります。

1711年 安藤氏が異動となり、石川総慶が入城します。

天守の内部に入ります。二層二階の天守ですが、角度により三階に見えます。

1744年 石川氏が異動となり、板倉勝澄が入城し、板倉氏が8代続きました。

明治の廃城令で多くの城が消滅しましたが、標高400mにある備中松山城は、破却を逃れました。しかし建物の老朽化で荒れていたのを、高梁中学校の信野氏が保存を提唱しました。

木材は現地の臥牛山から調達し人力で現場まで運びました。瓦の運搬は小学校、中学校の生徒により麓から運ばれ、街をあげての事業でした。

囲炉裏が真ん中にありますが、暖房用とした使われていました。群馬県の安中藩板倉家は、備中松山藩板倉家の分家にあたり、新島襄を輩出しています。備中松山藩の快風丸でアメリカに渡航しています。

備中松山藩の立役者である山田方谷は、陽明学を修め藩政改革に着手します。借金まみれの松山藩でしたが、質素倹約、藩札刷新、備中鍬やたばこ、茶、和紙などの産業振興、特産品を藩所有の蒸気船「快風丸」で大坂を通さず、直接江戸に運搬し高い収益を確保し、公共工事、農業用水の整備を行い、長州藩や長岡藩の河井継之助に大きな影響を与えました。

備中松山藩最後の藩主である板倉勝静は、徳川慶喜からの信頼厚く、老中首座兼会計総裁に専任されました。鳥羽伏見の戦いでは、大坂から徳川慶喜や松平容保とともに海陽丸で脱出しました。奥羽越列藩同盟の参謀となり、五稜郭まで随行し最後まで戦いました。

1階はパネル展示スペースとなっており、2階には御社壇があります。

小堀遠州、水野勝成、大石内蔵助など日本史上の有名な人物が絡むほど、重要な拠点であった事が伺えます。柱は根継ぎされ味わいを感じます。

詰所にも展示スペースがあります。

藩政改革の代名詞である山田方谷から学ぶべきことは多々ありそうですね。

縄張りや石垣、現存天守だけでなく、戦国時代、幕末の動乱、保存に立ち向かう地元の人々など、魅力がいっぱい詰まった城です。

最後は城主からお褒めにあずかり恐悦至極。約5キロ、80分のキャスリングでした。

江戸時代から明治時代まで、池田氏→水谷氏→安藤氏→石川氏→板倉氏と続きます。昭和初期に荒廃した備中松山城が修復されました。約80分のキャスリングでした。

(おまけ)

映画「男はつらいよ」の32作目、口笛を吹く寅次郎のロケ地になった薬師院です。上から法衣を着た寅さんが出てきそうです。誰かの家の法事に行って、みんなを笑顔にさせてくれるのでしょうか。


(おまけ)

新見往来と呼ばれる国道180号線沿いに、手打ちそば方谷庵があります。

幕末の藩政改革と閑谷学校を再興した山田方谷がお店の名前の由来だと思います。

暑い日だったので、さっぱりと食べられるもり蕎麦を頂きました。体がひんやりと癒され美味しく頂きました。



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