キャスリング 松山城編(武蔵国)

東武東上線東松山駅から東に2キロ、25分歩くと松山城跡があります。

車の場合、関越自動車道東松山インターから北東に4.5キロ、13分ほどで着きます。

松山城の北側に吉見百穴の無料駐車場に停めて、徒歩で5分ほどです。

松山城は吉見百穴と隣り合っていますが、殆どの人は吉見百穴に行ってしまいます。淋しい。。。

丘陵地帯を利用したお城ですが、隣の吉見百穴のように古墳時代の横穴墓軍群としても利用されていました。江戸時代に建てられた岩室観音堂があり、なかなか風情があります。

崖を利用したお堂の胎内めぐりがあります。ハートの形をした穴をくぐると御利益があるかも。。崖の上は松山城の曲輪があります。

吉見百穴のある北側から松山城の周りを西方向に向かうと、5分ほどで松山城登城口に着きます。

市野川に突き出た丸い形の丘陵を利用したお城です。西側の川の方から順番に、本丸、二の丸、春日丸、三の丸と続き、周りを曲輪や平場で防衛しています。

1399年 上田友直により本格的に築城したとされていますが、諸説あります。上田氏は、扇谷上杉氏の仕えており、古河公方や山内上杉氏の前線基地として機能したとされています。

山道を上がっていくと5分ほどで本曲輪(本丸)に着きます。比較的登りやすいですが、トレッキングシューズの方が良いと思います。

相模の北条氏は関東攻めで北上したきたので、扇谷上杉氏、古河公方、山内上杉氏は和睦して北条氏侵攻に対する防衛拠点となりました。

1537年 北条氏綱により河越城が落とされ、松山城にも攻めてきましたが、時の城主である難波田憲重は北条氏を撃破しました。その後、河越城を失った城主上杉朝定が、松山城主になり、本格的に改修しました。

案内板を見ると時代で城主が変わっても、北関東侵攻、南関東侵攻に対する東西の防衛ラインの城がある事が分かります。

1545年 北条氏に奪われた河越城を奪還する河越夜戦で、上杉朝定、難波田憲重は戦死し、扇谷上杉氏は滅亡し、松山城は北条氏康にものになりました。

山頂の本曲輪(本丸)から東方向に尾根に沿って、二ノ曲輪(二の丸)、三ノ曲輪(三の丸)が梯郭式に配置されています。

1545年 北条氏康の松山城を難波田憲重の婿の太田資正が奪還し、親戚の上田朝直が松山城城代になりますが、上田朝直が北条氏に寝返り、再び北条氏の城となりました。

本曲輪から東の空堀を通ると二ノ曲輪です。

1561年 松山城を上杉謙信が奪還し、岩槻城主の太田資正を松山城代にしました。

1563年 北条氏康と武田信玄の連合軍が松山城を攻め、再び北条氏のものになりました。その後は、北条氏家臣となった上田氏の居城となりました。

二ノ曲輪から空堀を通ると春日丸と三ノ曲輪です。

1590年 豊臣秀吉の小田原征伐で、松山城主の上田憲定は小田原城に籠城し、城代の山田直安以下2,300人が籠城しました。前田利家、上杉景勝の大軍が松山城を包囲し、松山城は落城しました。

本曲輪の北東にある小高い山は物見櫓跡です。本曲輪から北側に向かうと兵糧倉跡です。

1601年 松平家広が入城して松山藩を立藩し、後継の松平忠頼が浜松藩に異動になると松山城は廃城となり、川越藩領となりました。

1867年 川越藩主の松平直克が前橋藩に異動となり、比企・入間地域の統治拠点として、松山陣屋が置かれました。

兵糧倉から平場と呼ばれる小さい曲輪が幾つかあり、北側に出まして駐車場に戻りました。上杉氏と北条氏のせめぎ合いの城である事が分かった50分のキャスリングでした。



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