キャスリング 飯山城編

JR飯山線北飯山駅から南東に600m、9分歩くと飯山城跡です。

車の場合、上信越自動車道豊田飯山インターから北に9キロ、15分ほどで飯山城跡に着きます。飯山城址公園の西側に無料駐車場があります。上杉景勝時代の城代であった岩井信能の石碑と復元櫓門があります。


築城年は不明ですが、14世紀初頭は泉氏の居城でした。

櫓門から一段上がると西曲輪です。工事中(2019年12月)だったので迂回して本丸に向かいます。とはいっても大した距離ではありません。

1557年 高梨氏館(長野県中野市)を本拠とした高梨政頼は、武田氏から追われて飯山城に入りました。

西曲輪が城内で最も広かった西の丸と呼ばれ、藩主の私邸や西館門がありました。

1564年 上杉謙信は、武田氏の北上を阻止と越後の防御対策として、飯山城を本格的に築城しました。

西曲輪の北側には南中門跡があります。(弓道場があります)看板が雪対策なのかビニルがかかっていました。見にくくてごめんなさい。

1582年以降 上杉景勝の居城となり、飯山城代に岩井信能が入りました。

桜井戸と呼ばれる井戸跡の横から本丸に向かいます。

1598年 関一政が3万石で入城し、豊臣氏直轄領の川中島四郡の代官に任じられました。

石階段を上がると本丸になり、葵神社があります。葵神社の家紋は「丸に立葵」で、飯山藩主が10代続いた本多氏の家紋になります。

1603年 関ヶ原の戦い後、徳川家康六男の松平忠輝が川中島に入り、家臣の皆川広照が傅約として4万石で入城しました。皆川広照から飯山藩が立藩し初代藩主となりました。

1610年 堀直寄が4万石で入城しました。本来は、蔵王堂城の信濃川浸食の理由から長岡城築城の計画でしたが、兄弟不和によるお家騒動(越後福嶋騒動)で事実上の左遷でした。

本丸の北側には、綺麗な枡形虎口があります。

1616年 近江高島藩から佐久間安政が入城し、佐久間氏が3代続きました。

千曲川が見える本丸の東側は、常に閉じられていた不明門跡があります。

1639年 遠江国掛川藩から松平忠具(ただとも)入城し、桜井松平氏が2代続きました。

三の丸と本丸の南西側に二重櫓があり、天守の代用として使用されたと思われます。明治時代になり取り壊されました。

1706年 播磨赤穂藩から永井直敬が入城しました。

本丸の枡形虎口を下りると二の丸です。二の丸に御殿があり、飯山藩政が執り行われました。

1711年 摂津国尼崎藩から青山幸秀が入城しました。

東側には千曲川が流れ、西は斑尾の山地に囲まれ、越後への交通の要衝地でした。飯山城の東側は、独立した丘陵地帯を削った痕跡がよく分かります。

1717年 越後糸魚川藩から本多助芳が入城し、明治維新まで本多氏10代が続きました。本多正信に近い家系だそうです。

東側には、二の丸の裏門にあたる坂口門跡があります。松平氏の時代には、馬場や矢場があったようです。

1868年 戊辰戦争では、越後高田藩から旧幕府軍の衝鋒隊が飯山に侵入し、城下は焼失しました。

二の丸から下ると三の丸があります。三の丸には、東西に門が配置され、土塁、土塀によって囲まれ、二重櫓もありました。

三の丸から北を見ると飯山高校のグランドがあり、甲子園に出場した野球部が練習をしていました。

三の丸の北まで来ると、北中門跡があります。高校のグランドには外郭があり、番所、長屋、台所、調練所がありました。

東側は切岸、西側は土塁が築かれ、切通し状の狭い通路になっています。土塁上には、狭間付きの土塀があり、厳重な防御態勢でした。

朝の散歩コースに最適な距離と高低差で、30分のキャスリングでした。



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