キャスリング 明智城編

明知鉄道明智駅から東に1キロ、15分歩くと明智城跡があります。

車の場合、中央自動車道恵那インターから南に、24キロ35分ほどで着きます。

西側の大正村の無料駐車場に停めて大正ロマン、代官所、陣屋跡から登城するか、東側の給食センター近くの搦手口の駐車場に停めて歩くかのパターンがあります。

今回は、東側の搦手口からキャスリングスタートです!なんといっても2020年大河ドラマの舞台ですから恵那市も力が入り、整備されていました。

1247年 源頼朝の重臣である加藤景廉の孫である、遠山景重が明智城を築城したとされており、明知遠山氏代々の居城でした。

北には岩村城、恵那、東には飯田、西は土岐、南は岡崎に抜ける街道があり、交通の要衝なので、戦国時代に武田氏と織田氏の争奪戦が繰り広げられました。遠山氏は当初武田氏についていましたが、明智城主の遠山景行は織田氏につきました。

東西400m、南北300mの規模で、高低差が60mあるのでアップダウンが激しいです。東側(搦手口)から反時計回りに周っていくと、畝状竪堀群があります。

画像では伝えきれない立派な横堀や畝状竪堀群です。攻撃と守備の両方の気持ちを知る為に、走って行ったりきたりしていました。畝状竪堀群は、敵兵の横移動を遮断する事で、攻めてきた敵兵を一方的に攻撃できます。19本の竪堀が確認されています。

1570年 遠山景行が上村合戦において自刃し、景行の甥で小里光次も戦死しましたが、(詳しくは小里城編で)織田信長に援軍を要請し、奪われた明智城を奪還しました。

西側の大手口にあたる所まで畝状竪堀群が続いています。さあいよいよ本丸に向かいます。

1574年 武田勝頼は1万5千の兵で明智城を攻めました。遠山一行は織田信忠、明智光秀の援軍を受けましたが、謀反などがあり明智城は落城しました。

所々に曲輪が配されていますが、曲輪自体が独立して攻めづらい傾斜になっています。

1575年 長篠の戦いで大敗した武田勝頼の勢いが弱まり、明智城を奪還しました。

本丸を囲うように帯曲輪が配さています。

1583年 豊臣秀吉の勢力が増し東美濃は森長可に任され、遠山利景と従兄の小里光明は足助城の鈴木氏を頼りました。しかし翌年の小牧・長久手の戦いで森長可が戦死し明智城を返されますが、徳川家康は豊臣秀吉の顔を立て明智城に森忠政に返し、森左近が明智城代となりました。

出丸の石垣跡や、猿も戻るほどの絶壁の切岸が圧巻です。

1600年 徳川家康は森忠政を川中島に異動させ、原土佐守を明智城代としました。しかし関ヶ原の戦いで、徳川秀忠を安全に中山道を通行させるために、遠山利景や子の方景、小里氏に明智城を奪還を命じ、見事奪い返しました。東美濃も平定しました。

出丸には、礎石、旗立石、手水鉢のいずれかの使用された「くつ石」があります。南側にあたる斜面には長い竪堀があります。

1603年 関ヶ原の戦いで東美濃を平定させた遠山利景は旗本となりました。

出丸から本丸に向かいます。

1615年 一国一城令により遠山方景に江戸邸が与えられ、明智城は廃城となりました。明智陣屋が構えられ、村上氏が明治時代まで代官として治めました。

手前に二の丸があり、虎口を上がると本丸です。

東側からぐるりと半周し南側から本丸に到着です。規模の割に高低差があるので結構疲れました。

トリッキーな縄張りと、時代に翻弄されながらも生きながらえた遠山氏の生きざまが分かった60分のキャスリングでした。

(おまけ)明智駅に近いお土産屋さんの大正村(無料駐車場あり)と陣屋跡に近い大正ロマン館です。大正ロマン館は大河ドラマ館のオープンイベントが行われていました。

(おまけ)

明智ランチは、グルメマップに載っていた十割蕎麦と岩魚のやまだやでした。十割ながらもツルツルの蕎麦の食感と岩魚を堪能しました。



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