キャスリング 鏡山城編

JR山陽本線西条駅から南に4.5キロ、約1時間歩くと鏡山城跡に着きます。

車の場合、山陽自動車道西条インターから南に7.6キロ、15分ほどで着きます。鏡山城の北側が池のある公園になっており、無料駐車場があります。今回は第一駐車場が混んでいたので、東側にある第二駐車場に停めました。(2020年3月キャスリング)

築城時期は不明ですが、周防・長門国の守護大名だった大内氏が築城しました。1465年頃の文献によると南北朝時代後半から室町時代にかけて築城されたと推定されます。

本丸までのルートは、東側(登山道Aルート・Bルート)と北側で最短の(鏡山公園ルート)があります。

1467年 大内政弘は守護代に相当する役職の代官、仁保弘有を鏡山城に配置しており、応仁の乱が起きると西軍の山名宗全に加勢しました。(東軍は管領の細川勝元)

案内看板の縄張り図を見ると、東西に長い山の尾根を利用した山城だと分かります。

1470年 応仁の乱で劣勢になった細川勝元は、大内政弘の叔父の大内道頓を東軍に引き入れる事に成功しました。代官の仁保弘有含め、多くの大内氏家臣が東軍になりました。

公園では子供達が遊具で遊び、うららかな春の一日を楽しんでいました。が私たちは公園から案内通りに登山道で向かいキャスリングスタートです!

1471年 東軍になった代官の仁保弘有は、鏡山城を拠点として備後守護の山名是豊と連携し、この周辺の支配を強めていきます。

3分ほど登ると登山道Bルートと合流します。階段等整備され傾斜もきつくないので、小学生低学年ぐらいの子供たちも本丸まで登っていました。

周防・長門国守護代の陶弘護は西軍を一つに集め、東軍の大内道頓を破りました。西軍のままの大内政弘は代官に安富行房を任命し、鏡山城を包囲させます。4ヶ月後に鏡山城は落城し、1475年にこの地域の戦乱は西軍が優勢となり終息しました。1477年には応仁の乱が終結しました。

5分ほど登ると竪堀が出てきました。

1478年 大内政弘は、乱れた地域の安定化をはかる為、管理規則「安芸国西条鏡城法式条々」を定めました。大内氏の直轄城は城督と呼ばれ、内藤弘矩、陶興房など守護代級の重臣が担っていました。

さらに3分登ると堀切があります。御殿場中のダバの看板があり、本丸の事です。「ダバ」とは段場=曲輪の意味です。

1522年 大内義興が最も信頼をおく陶興房が代官に任命され、鏡山城に入城しました。ここからこの地域の安定化に向けて治めていきますが。。。

2019年の台風の影響で、崩れなどが起きた所は、ブルーシートがかけられていました。南側の大手門です。

1523年 出雲国の尼子経久が鏡山城を攻め落城しました。城は焼け落ち本丸や三の丸でも火災の痕跡が発見されています。当時の鏡山城主の蔵田房信も奮戦し尼子氏に大きなダメージを与えました。しかし尼子氏に従っていた毛利元就の調略により落城したともされています。

馬のダバと呼ばれる三の丸は、東西30m、南北11mの規模で西側に土塁、南側に畝状竪堀群が配されています。急傾斜で林の中なので確認できませんでした。南側の方角=午から馬のダバと言われています。

1525年 大内氏は陶興房を中心に鏡山城を奪還しました。しかし鏡山城から西に8キロほどの所に槌山城を築城した事で、鏡山城は廃城となりました。

さらに階段を上がるともっとも広い曲輪の「中のダバ」=二の丸です。

東西50m、南北15mと細長い曲輪は三段で構成され、井戸と本丸があります。

中のダバから一段上がると、標高355mの山頂に位置する御殿場になります。東西30m、南北11mの規模で、礎石建物がありました。

帰りは「下のダバ」5の丸に寄りました。東西30m、南北15mで北側に下がっていくと畝状竪堀群があります。

北側中腹の畝状竪堀群です。画像では分かりにくいですが、竪堀が5本ほど確認できました。探検気分で山歩きができた約1.8キロ、1時間のキャスリングでした。



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