キャスリング 信貴山城編

近鉄生駒線信貴山下駅から西に2.3キロ、45分歩くと信貴山朝護孫寺の駐車場に着き、ここから参道を通り信貴山城のルートがあります。

車の場合、西名阪自動車道香芝インターから、北に9.3キロ、20分ほどで駐車場に着きます。駐車料金は1日500円です。(2020年3月キャスリング)

信貴山城の西側には、天智天皇の時代に築城された古代山城の高安城がありますが、信貴山城との関連性は不明で、南北朝時代に楠木正成によって築城したとも言われていますが、定かではありません。松永久秀の時代には、南北880m、東西600mの大規模な山城で、110以上の曲輪が確認されています。

参道の入り口に案内看板があり、⑨番の松永屋敷と⑥番の空鉢護法堂を目指して、キャスリングスタートです!

1460年 文献によると応仁の乱で畠山義就が信貴山に陣を引いたという記述がありましたので、ここで信貴山がなんらかの形で使われていたようです。

3分ほど歩くと赤い本堂が見えてきました。ここから直接に信貴山城跡までは690mです。

1536年 河内、山城の守護代の木沢長政が本格的に築城しました。

5分ほど歩くと多宝塔が見えてきます。多宝塔の左手(赤い鳥居が並ぶ道)から登ると、直接信貴山城跡の空鉢護法堂に行けます。右手(舗装道路)に進むと、松永屋敷に行けます。

1542年 10年間権勢を誇っていた木沢長政が太平寺の戦いで三好長慶らに討たれると、信貴山城、二上山城と落城しました。

多宝塔から10分歩くと、舗装道路から分岐し松永屋敷に行ける道があります。

1560年 三好長慶の家臣だった松永久秀は大和一国を預かり、信貴山城に拠点を構えました。同時期に20キロ離れた北東方向に、多聞山城も構えました。多聞山城は政治拠点、信貴山城は軍事拠点と使い分けたそうです。

分岐してからは杉林の中を歩いていきます。途中で案内看板があります。

1563年 興福寺衆徒の筒井氏に信貴山城を奪われましたが、同年に奪還しています。

分岐から5分ほどで松永屋敷に着きます。南北に細長い松永屋敷の南側の山頂付近が天守閣の場所とされています。

1568年 松永久秀、三好義継と三好三人衆との間で抗争が始まり、三好三人衆方の三好康長が信貴山城を攻め落としました。(信貴山城の戦い)戦いは、その後足利義昭と織田信長の上洛で松永方に援軍が入り、信貴山城を奪還しました。

松永久秀は、足利義昭の上洛に協力し、価値のある茶器「九十九髪茄子」を信長に差出し、足利幕府の幕臣としての地位を確立しました。金ヶ崎の戦いで信長の撤退の際にも、朽木元網を味方に引き入れ、撤退の手助けをしています。

静寂の杉林に囲まれた松永屋敷跡は、土塁で囲まれ、東側に複数の門を配置していました。

1570年 松永久秀は、政治拠点だった多聞山城の機能を信貴山城に集約しました。三好義継軍とともに筒井順慶の辰市城を攻めました。(辰市城の戦い)戦いは、筒井軍の勝利でした。

元に山道に戻り、天守閣(本丸)を目指します。

1572年 足利幕府の幕臣としての立場でしたが、信長の家臣として動いていた事に納得ができなかったのか、信長に敵対する形を取りました。しかし、信長と敵対する武田信玄の死や槙島城での戦いで足利幕府の事実上の滅亡などが重なり、筒井順慶とともに信長に服属しました。

松永屋敷から坂道を登ること10分で本丸の空鉢堂に到着です。

1577年 松永久秀は石山本願寺攻め(石山合戦)で、織田家臣で指揮官の佐久間信盛の与力として戦いましたが、石山本願寺、上杉謙信、毛利輝元の反織田信長に勢力と呼応し、石山本願寺攻めから離脱しました。謀反を起こした久秀は、信貴山城に籠城しました。

標高433mの空鉢護法堂から南には、二上山と大阪奈良の境目の街並みが見えます。この本丸にかつて四層の天守があったとされています。

織田信長は籠城した松永久秀を攻めるため、織田信忠を総大将に信貴山城を包囲しました。織田方の佐久間信盛は、有名な茶釜である「古天明平蜘蛛」を差し出すように求めました。

空鉢護法堂でお参りした後は、本来の参道から階段を下りて帰ります。

松永久秀は、平蜘蛛茶釜と自分の首は信長に渡しくないと、平蜘蛛を叩き割って城に火をつけ自害しました。以降この城が使われる事は無く廃城になりました。

大河ドラマでは火薬を茶釜につめて、松永久秀が爆死したシーンを思い出しました。朝7時から登り始め、神聖で凛とした空気で気持ちの良い、3.3キロ、約1時間のキャスリングでした。



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