キャスリング 三木城編

神戸電鉄粟生線(あおせん)三木上の丸駅から西に150m3分歩いた所に三木城跡があります。

車の場合は、山陽自動車道三木小野インターを降りて、東に4キロ10分ぐらいです。駅からの歩きの場合も、三木城近くは道が狭く分かりにくく、小さい案内板があるぐらいです。

三木城は、小高い上の丸大地の上に築かれた平山城です。道を進むと上の丸保育所と駐車場があります。駐車場は無料です。車を降りると、別所長治像があります。

1492年赤松氏家臣団の別所則治が三木城を築城したと言われています。画像は天守跡です。

1568年 別所則治の孫の別所就治は、三好三人衆軍に攻め込まれ、和議をむすび東大寺大仏殿の戦いなどに出陣していましたが、織田信長方につきました。

1578年 別所長治が当主となり、毛利攻めの先鋒を務めると織田信長に約束していました。しかし反旗を翻し、三木城に立て籠もりました。

1579年 織田信長から中国攻めを任された羽柴秀吉の三木合戦が始まりました。その合戦図の絵や陣配置図などが充実しています。

別所長治は毛利氏の支援を待っていたとされ、織田信長と羽柴秀吉の「三木の干殺し」と言われる兵糧攻めが行われました。最期は、長治一族の命と引き換えに城兵の命を助ける事で和議が結ばれました。天守跡には、別所長治の辞世の句「今はただ 恨みもあらじ 諸人の 命にかはる 我が身と思へば」の句碑があります。

一時、有岡城主の荒木村重の造反により、補給路がつながります。有岡城落城後、補給路は絶たれ食料がそこをつきます。

干殺しと言われる地獄絵図が繰り広げられたのも今は昔、のどかな風景です。

上の丸稲荷神社には、三木城復元図、別所長治奮戦図があります。神社でお参りをします。

1585年羽柴秀吉は姫路城に入城し、三木城の城代として中川秀政が入城します。

その後は、豊臣氏の直轄地となり秀吉配下の武将が城番をしていきます。

1617年一国一城令で廃城となります。軍師半兵衛と官兵衛の旗が立っていましたが、干殺しの立案者とされているので複雑な気持ちです。

遺構は少ないですが、三木合戦が詳しくまとめられ、別所長治が地元の方から愛されているのが良く分かりました。40分のキャスリングでした。



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