キャスリング 長篠城編(日本100名城)

JR飯田線長篠城駅から西に600m、10分歩くと長篠城跡があります。

車の場合は、新東名高速道路新城インターを降りて、東に2キロ、5分走って長篠城址史跡保存館に無料の駐車場があります。目印は、インパクトのある磔の看板です。

地図がありますが、縮尺が大きいようです。長篠城址史跡保存館に100名城スタンプが置いてあり、資料などを見て学びましょう。大人210円です。

1508年 今川氏親と親しかった菅沼元成が築城しました。

1573年 武田信玄にさんざん攻められましたが、信玄が死去し、その隙に徳川家康に攻められて落城します。その際に家康は城を拡張しました。

地図を見てお城の全体像を把握しましょう。

1575年 武田勝頼が15,000の兵で攻めてきました。その時の城主奥平信昌は、わずか500の兵で籠城し、長篠の戦いが始まります。

長篠の戦いでは、大量の鉄砲や川に囲まれた自然の要害でなんとか持ちこたえていましたが、食料を失い落城寸前でした。その時、奥平定昌の家臣 鳥居強右衛門(とりいすねえもん)が進言します。これから65キロ離れた岡崎城まで行って、徳川家康に援軍を要請し、緊急性を訴えるとの提案でした。闇夜に紛れ岡崎城までたどりついた強右衛門は、織田信長の援軍30,000の兵と家康8,000の兵が行く事を伝えられ男泣きをしたそうです。

援軍がもうすぐ行くという情報を、即刻伝えたいと長篠城に戻る途中で、武田軍に捕らえられてしまいます。武田は、長篠城の者に「援軍は来ない」と伝えれば、武田の家臣にしてやると交換条件を出されました。その条件を引き受け、長篠城の味方達に大声で伝えました。

「もうすぐ援軍が来るぞ!もう少しの辛抱だ!それまで持ち堪えてくれ!」

鳥居強右衛門は、武田の条件を裏切り、磔にされて命が果てました。

その後、奥平勢は持ち堪え、長篠の戦いで織田・徳川連合軍は武田軍を撃破し、城は守られました。一人の忠烈の話は、色々な場所で語り継がれています。

長篠城の主人公は鳥居強右衛門ですね。しかしそれだけではなく、織田信長は、大阪堺の港を管理し、物流の封鎖を行いました。その結果、武田軍の鉄砲隊の火薬(硝石)が入手しにくくなった事も敗戦の要因だと言われています。織田の戦略と強右衛門の武勇に思いをはせながら長篠城の土塁や石垣などをめぐってみて下さい。50分のキャスリングでした。



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