キャスリング 多聞城編

近鉄奈良駅から北に約2キロ、歩いて25分の所の多聞山に多聞城跡があります。

1560年 畿内で一大勢力を誇っていた三好長慶(みよしながよし)が、大和支配の居城として松永久秀に命じて築城しました。

小高い山の多聞山から南東を見ると野焼きされた若草山と東大寺が見えます。

奈良を支配していた興福寺の武将筒井順慶を打ち破り、興福寺、東大寺を監視するという役割もあったそうです。松永久秀と三好三人衆群などは東大寺大仏殿の戦いなどを繰り広げました。

1564年 三好長慶が亡くなると、松永久秀の大きな勢力をよく思わない三好家で内紛が起きます。その内紛の際に東大寺が焼け落ちました。

地政学上、京都の南を押さえたかった織田信長は、奈良を支配している松永久秀と手を組みます。しかしその関係も筒井順慶が足利義昭と姻戚関係になった事から崩れ始めます。筒井順慶は織田信長の家臣と認められ、織田信長とは敵対関係になります。

1573年 織田信長と小競り合いの末、松永久秀は多聞城を明け渡す事になります。その後宿敵の筒井順慶が奈良を任され多聞城が壊されます。

1577年 織田信長に謀反を起こした松永久秀は、信貴山城に籠城します。越後の上杉、甲斐の武田などの援軍は来ず追い詰められて自害します。

時間の関係で行けなかったですが、多聞城跡縄張り沿いに周っていくと道路ですがお堀の跡など遺構も発見できます。多聞城跡から約500m歩けば東大寺転害門や正倉院などありますので、歩いて散策しながら観光するのも良いかもしれませんね。

現在は若草中学校になっています。お城には多聞天様を祀っていたのが由来みたいです。敷地には長屋形状の櫓が築かれ、雨の日でも鉄砲など打てるようになっていました。多くのお城に使われている多聞櫓の由来にもなっています。

曲輪(くるわ)全体に礎石、石垣を使い、白漆喰の土壁や瓦屋根など当時としては最先端のお城だったそうです。庭園、狩野派の絵画、茶室など豪華さもあり近世城郭に移行する技術がちりばめられており、ルイス・フロイスも絶賛していました。10分のキャスリングでした。



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