キャスリング 高天神城編(続日本100名城)

JR掛川駅北口3番乗り場から、バスで掛川大東浜岡線「浜岡営業所行き」「大東支所行き」土方を下車し15分歩いた所に、高天神城跡があります。

車の場合は、東名自動車道掛川インターから南に10キロ走ると着きます。搦手門の北口と大手門の南口それぞれ無料駐車場があります。画像は南口からです。

南口駐車場は10台ほどの駐車スペースがあります。高天神城の大きな地図があるので、全体像を把握します。

続100名城スタンプは3つの場所に置かれています。駐車場から山道に入りキャスリングスタートです!

1513年 正確な築城年、築城主は不明ですが、標高132mの鶴翁山(かくおうざん)の地形を活かして、今川氏家臣の福島左衛門尉助春が高天神城に居た事が判明しています。

1560年 今川氏の家臣小笠原氏は高天神城代となっていましたが、今川義元が桶狭間の戦いで敗れました。

南口駐車場は追手門からの登城となります。

1569年 今川氏家臣の小笠原氏は徳川の家臣になりました。

武田軍が攻めてきた時に、鐘を鳴らして到着した事を知らせ戦闘配備を指示した場所とされています。だからこの名前なのでしょうか。

1574年 武田信玄の死後、子の勝頼は高天神城を攻め、城主の小笠原氏助は開城します。徳川の援軍は出す余裕が無く、織田軍も一向一揆の対応で援軍を送れなかったと言われています。徳川家臣の大須賀康高は浜松まで落ち延びました。(第一次高天神城の戦い)

駐車場から5分ぐらいで三の丸跡に着きました。

1575年 武田勝頼は高天神城を落城させた事で大きく武名を上げましたが、長篠の戦いで敗北し大きなダメージを受けました。武田氏の高天神城は、東からは北条氏、西からは織田氏徳川氏からの攻撃に備える為、縄張りの拡張工事を行いました。

石垣ではなく土塁で防備しています。

1578年 徳川家康は、高天神城を奪還する為、高天神城の西約10キロの所に横須賀城を築きました。横須賀城主は、第一次高天神城の戦いで浜松に落ち延びた大須賀康高です。

本丸に近い御前曲輪です。すぐ近くの元天神社があります。元々は高天神社が鎮座していましたが、徳川吉宗の時代に現在の地に遷宮された為に元宮と呼ばれています。

1580年 徳川家康は高天神城包囲網を敷き、兵糧攻めにしていきます。1581年に多くの城兵が餓死し、最後は武田軍の城番岡部元信が城から討ってでますが、徳川軍も応戦して落城させます。(第二次高天神城の戦い)

駐車場から10分ぐらいで本丸跡に着きました。奪われては奪い返す歴史の中心の場所です。

武田勝頼は高天神城に援軍を出せず、武田氏の威信は失墜します。その後廃城となり、横須賀城がこの地域の中心となり明治まで続きました。

松幹化石の看板の右手に切株があり、これが化石です。火山の噴出物で、木が密閉状態にされ化石になった物です。

本丸から西に下がった所に、井戸曲輪、二の丸、西の丸、現高天神社があります。時間の関係で本丸だけの約20分のキャスリングでした。また機会を見つけて西の丸まで行きたいと思います。

高天神城南駐車場から東に1.5キロ、5分車で走った所に大東北公民館があります。ここに続日本100名城スタンプが置いてあります。

パンフレットが置いてありスタッフの方からも親切に色々な上場を頂きました。

高天神を制する者は遠江を制すの名の通り、様々な歴史のドラマがありました。



シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする