キャスリング 備中高松城編(続日本100名城)

JR桃太郎線備中高松駅から北に約700m、10分歩いた所に備中高松城跡があります。

車だと、国道180号から高松稲荷交差点を曲がり、県道241号を北上し目印の最上稲荷大鳥居をくぐると備中高松城跡の示す看板が出てきます。

高松城址公園駐車場は無料でかなりの台数が置けます。

駐車場からスタートすると、まずは三の丸跡からです。築城年は不明で、ここから約40キロ離れた備中松山城主三村氏の命令で家臣の石川氏が築城しました。

高松城址公園資料館があります。入館無料で高松城の歴史や水攻めの全貌を把握しましょう!

記念スタンプも置いてありました。

1575年 石川氏が毛利氏に滅ぼされます。その後は、清水宗治が城主となりました。

ここの主人公はこの人です。進むと二の丸跡があります。田んぼが広がる日本の原風景で時間がゆっくりと流れています。

本丸にかかる橋を渡りると本丸跡です。奥の方にも小さい駐車場がありました。

1582年 織田信長の家臣である羽柴秀吉は中国攻めを命令され、4月に備中高松城の戦いが始まりました。

秀吉側は、加藤清正、宇喜多忠家、山内一豊、花房助兵衛などです。

毛利側は、吉川元春、小早川隆景などです。

しかしなかなか決着がつかず持久戦となりました。そこで秀吉の軍師官兵衛(黒田孝高)により、5月8日約2.7キロの堤防を築き、足守川の水を引き入れて水攻めにする奇策に出ます。

水攻めにより高松城は浮城になりました。

ところが、6月2日に本能寺の変で織田信長が討ち取られます。6月3日明智光秀の密使が毛利氏に向かう途中に秀吉軍が捕らえ信長の死を知ります。毛利氏には信長の死を隠して、高松城主清水宗治の首を差し出せば、領土については譲歩し城兵を助ける条件を出します。

清水宗治は、主君を安泰にし部下の命が助けることができるなら、自分の首は安いものだと自害を決意します。その辞世の句碑と首塚が本丸にあります。

「浮世をば 今こそ渡れ もののふの名を高松の 苔に残して」

訳:現世を今こそ渡ってあの世へ行くぞ。武士としての名前を高め、高松の地の苔のように永遠に残して

勇将の辞世の句はカッコいいですね。首塚に手を合わせます。

駐車場から東方向(お寺の方向)の奥に清水宗治自刃の地があります。

ここでも合掌します。秀吉は清水宗治の最期を見届けると、武士の鑑として称賛し手厚く葬りました。そして信長の仇を討つため、京都に向けて中国大返しが始まります。

1985年の豪雨災害の時は、高松城を残して周辺の田んぼは水没しました。

高松城跡から南東に1.5キロ、20分歩くと、水攻め築堤跡があります。時間があれば行ってみて下さい。ここ蛙ヶ鼻から約2.7キロ、高さ7m、底幅24m、工期12日間の巨大突貫工事であったと言われています。

資料館や公園を一周しながら40分のキャスリングでした。



シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする