JR参宮線田丸駅から北西に550m、7分歩いた所に田丸城跡があります。
車の場合は、伊勢自動車道玉城インターから北に3キロ、7分ぐらいです。玉城町役場の駐車場に停めさせてもらいました。
玉城町役場の隣に村山龍平記念館があり、そこに続日本100名城スタンプとパンフレットがあります。そこで情報収集していきます。
村山龍平氏は、紀州藩田丸領に仕えた旧士族で政治家、朝日新聞の社主でした。
大手門からキャスリングスタートです!玉城中学校もあり、散歩道になっています。
田丸城が明治維新で廃城になっても、城内には8つの門が残っていました。その一つの富士見門(長屋門)は江戸時代からの建物です。
1336年 南北朝時代に南朝方の拠点として、北畠親房が砦を築いたことに始まります。
1571年 北畠氏から田丸氏を名乗った田丸直昌の田丸城は、織田信長の伊勢侵攻に伴い、北畠具教の養子となった北畠信雄(織田信雄)の居城となります。1575年に田丸城を改修し、三層の天守がある近世城郭になっていきます。
本丸跡に近づいてきました。
1576年 北畠信雄の命で、田丸直昌は北畠一族を謀殺します。
1580年 田丸城は火災で天守が焼失し、織田信雄は、松ヶ島城に移ります。
天守台には三層の天守がありましたが、現在は天守を模した足場が組まれています。
1600年 関ヶ原の戦い後、東軍だった稲葉道通が城主となります。
西側には多気の山々、東側は伊勢方面、伊勢湾です。
1617年 藤堂高虎が伊勢田丸領を加増され田丸城を支配します。
東の眼下には玉城中学校が見えます。その手前には食い違い虎口が見えます。南側には二の丸があります。
1619年 紀州徳川家の紀州藩領となり、家老の久野氏が城主となり9代まで続き明治維新を迎えます。
南側の二の丸跡です。更に南には裏門である搦手門跡があり、土塁の外枡形が残っています。
二の丸から本丸を見てみます。武骨で迫力のある石垣です。
本丸から北の丸の間の空堀と北の丸の石垣です。
北の丸跡には城山稲荷社があり五穀豊穣が祀られています。玉城町役場まで戻る途中にSLが置いてありました。南北朝、戦国、江戸、明治と脈々と続く歴史の糸をたどった40分のキャスリングでした。