キャスリング 霧山城編

JR名松線比津駅から東に2.7キロ、50分歩いた所に霧山城跡があります。

車の場合は、北畠氏館跡の駐車場から登っていきます。

伊勢国司から戦国大名になった北畠氏は、多気地方を拠点として240年間に渡り難攻不落の城でした。伊勢国と大和国をむすぶ伊勢本街道の交通の要衝地でした。

北畠神社の鳥居をくぐり、左手が登山口となります。

1342年 伊勢南部地方を拠点としていた北畠顕能は、防御力の高い山城として霧山城を築城しました。

霧山城跡まで1350mですが、歩いて5分ぐらいで北畠氏館の詰城跡があります。

麓の北畠氏館との比高は80mの詰めの城です。2つの曲輪で構成されています。当時は麓の城下町に700人~1000人の家臣が暮らしていました。気を取り直して杉林を登っていきます。

登山道はすっきりと整備され、杉林の凛とした空気の中を歩くので気持ちが良いです。

歩いて20分ぐらいで南曲輪に近づいてきました。

霧山城跡の鐘突堂跡に到着です。

標高560m、比高240mの尾根に曲輪を設けて、その一つが鐘突堂になります。

鐘突堂から一旦下におりて、また登ると本丸跡に着きます。長さ120m、幅30mの細長い曲輪です。

本丸とはいえ、いちいち登ってきてもいられないので、有事の際の詰めの城です。平常時は、麓の北畠氏館で政務を執り行っていました。

どこからも峠越えが必要とされる天然の要害でした。南北朝時代の動乱の中、南朝方は、北畠氏と楠木氏でした。四条畷の戦いで楠木正行が討たれ、北朝方の高師直は南朝の吉野に攻めた際に、北畠顕能はここから攻めて足利氏を撃退します。

本丸跡と矢倉跡には堀切を設けています。

1558年頃になると、織田信長が北勢に攻めてきて、松阪市の大河内城に本拠を移しました。北畠成政が霧山城代になります。大河内城の戦いでは、織田信長の子、織田信雄を北畠具房の養子にして和睦しました。

1575年 織田信長は北畠具房を隠居させ、織田信雄を田丸城に異動させました。織田信雄は北畠具教や一族を殺害し、事実上北畠氏は滅亡します。

霧山城代の北畠成政は、羽柴秀吉、神戸信孝、関盛信らの大軍から攻撃され霧山城は落城し、240年の歴史に幕が閉じました。

現在は、気持ち良く森林浴ができる場所ですが、栄枯盛衰の戦国を生きた城でした。

帰りの登山道から麓の北畠神社が見えて到着です。往復51分のキャスリングでした。



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