キャスリング 田中城編

JR東海道本線西焼津駅から北に1.7キロ、22分歩くと田中城本丸跡に着きます。

車の場合は、東名高速道路焼津インターから南西に3キロ、7分ぐらいで、田中城下屋敷駐車場に着きます。無料で画像の通り多くの台数が停められます。

駐車場には、お城の案内看板があります。ここは、江戸時代に城主の別荘だった田中城下屋敷です。特徴的な、四重の堀と土塁で囲まれた、日本で唯一残る円郭式のお城です。

駐車場から下屋敷の門をくぐります。この地の豪族だった一色氏などの屋敷跡だと言われています。

郷蔵とは年貢や飢饉に備えた備蓄米の倉庫です。江戸時代には村ごとに設置され、村役人が管理していました。1843年に建替えした歴史的に貴重な建造物です。

1537年 今川氏の家臣一色によって築かれました。

下屋敷は泉が多く、土塁跡もあります。地元の方の憩いの場になっています。

1570年 武田氏が駿河に侵攻し、馬場信春により三日月堀が造られました。山県昌景が在番し、三河の徳川氏に対抗するお城として機能しました。

数寄屋造りの茶室、納屋・厩の建物などがあります。無料で開放されています。

1582年 徳川氏に4回攻められ開城しました。

厩と併設された仲間部屋(ちゅうげんべや)は1859年の築と推定されています。

1590年 徳川家康の関東移封後は、駿府城の中村一忠が管理しました。

下屋敷の冠木門と本丸櫓です。綺麗に整備されている所が嬉しいです。

1601年 酒井忠利が田中藩主となり、四の丸を拡張し、城下町を整備します。

本丸の南東隅に「御亭」(おちん)と呼ばれる建物で、他の建物と同じく市の有形文化財になります。

1609年 酒井忠利が川越藩に異動となり、徳川家康と子の徳川頼宣が治めます。

本丸櫓の中に無料で入れます。田中城の模型やパネルが展示されています。

1616年 徳川家康は、鷹狩りで頻繁に田中城に訪れました。宿泊した際に出された鯛の天ぷらで食あたりを起こしきっかで亡くなったという説があります。しかし、胃がんで亡くなったという説が有力です。

二階に上がると、田中奉行だった高橋泥舟の書があります。

田中城の変遷では、松平氏→水野氏→松平氏→北条氏→西尾氏→酒井氏→土屋氏→太田氏→内藤氏→土岐氏→本多氏と目まぐるしく変わります。

東海道の要衝地という事もあり、戦略上重要な拠点として今川氏、武田氏から注目されていました。織田信長、豊臣秀吉、徳川家光なども宿泊しており、御殿は格式が高いとされる檜皮葺の屋根でした。

1869年 静岡藩田中勤番組頭、田中奉行として高橋泥舟が入りました。徳川慶喜の身辺警固を勤め「幕末三舟」の一人です。

関ヶ原の戦い以前に徳川氏に従った1万石以上の大名を譜代大名と呼びます。幕府の要職者は譜代大名が多く、田中藩主も譜代大名が多く、藩主になった後に出世していくケースが多かったようです。浜松城のような出世城みたいな感じですね。

江戸時代、幕府は大名の力を抑える為に、所領を分散させる飛び地政策を取りました。この地域も田中藩だけではなく、旗本領、掛川藩領、沼津藩領など複雑に入り組んでいました。

下屋敷でもらったパンフレットの地図を元に、田中城本丸まで歩いてみます。まずは、新宿一之門跡と土塁跡です。

同心円状の真ん中に進むと、武田氏の築城技術の特徴である、三日月堀(馬出曲輪)があります。6ヶ所に馬出曲輪が造られました。

さらに真ん中に進むと藤枝市立西益津小学校があり、ここが本丸跡になります。一部の道路は小学校を中心とした同心円状になっています。縄張りは亀の甲羅にも見えますので、亀城と呼ばれています。1829年 本多正寛が創設した藩校の日知館の亀城ッ子宣言の看板がありました。

多くの覇者が注目していた田中城は、約40分のキャスリングでした。



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