キャスリング 河後森城編(続日本100名城)

JR予土線松丸駅から南に1キロ、16分歩くと河後森城跡(かごもりじょう)があります。

車の場合は、県道8号線からそれて700mぐらい走ると、無料の駐車場があります。県道8号線の車窓からは城らしき山が見えました。

駐車場は目方で15台ぐらい置けそうでした。朝7時だったので誰もいないです。河後森城跡の案内地図を見て全体像を把握します。珍しい馬蹄状の形で曲輪が配置されています。

馬蹄状の真ん中の窪地から上がり、時計回りに周っていきます。

築城時期は定かではありませんが、1196年頃から渡辺氏の居城としていました。

途中には井戸があります。そこから階段を上ると西第十曲輪があります。ここから周っていきます。

西第十曲輪でまず目につくのは、掘立柱建物です。土に直接、木の柱を埋めるので腐りやすく長持ちがしませんが、この曲輪で二棟の存在が確認できました。ここに、続100名城スタンプが置いてあります。

曲輪の周りには、竪堀、堀切があり敵の侵入を阻んでいました。

1580年頃 城主渡辺教忠の近侍の芝源三郎が謀略で河後森城を奪いました。

1583年 織田信長の四国征伐で戸田勝隆により芝源三郎は追放されました。その後、この地を拝領された藤堂高虎は、河後森城の天守を板島城(宇和島城)の月見櫓にしたと言われています。

曲輪の淵沿いに土塁があり、実際に幅2.2m、高さ90cmと推定されています。曲輪の平坦部が狭くなるのを防ぐ為、斜面から土が盛られており、工夫が施されています。

1614年 伊達秀宗が宇和島藩を立藩した際に、付家老の桑折氏が入城したとされています。

画像は、西第十曲輪から短い階段を上がると第九曲輪、長い階段の途中に第八曲輪、階段を上がると第七曲輪です。

1615年 一国一城令で廃城となりました。

左手に第六曲輪、さらに階段を上がって第五、第四と螺旋状に曲輪が上がっていきます。

左手に第四曲輪さらに上がって第三曲輪で、第二曲輪との間には堀切があります。堀切は、盛り土で保護しているので、見た目は浅いです。実際には、幅1.3~2.2m、深さ1.3~1.8mの規模です。

西第二曲輪と本郭との間には石垣があり土橋で連結されています。城主の交代ごとに改修され1600年前後に石垣で固めらました。

本郭は最も高い場所にあり標高171m、比高88mです。松野町の町並みが見えます。

本郭建物は10棟、門は1基、土塀跡がありました。城主の住む主殿舎、台所、番小屋があり、瓦葺きの建物もあったと考えられます。主殿舎は東西12m、南北9mと最も大きな建築物でした。

本郭を過ぎると下に下がっていき、東曲輪ゾーンになります。山の岩盤を削った階段が見つかり、当時の様子を再現しています。東第二曲輪、第三、第四曲輪と続きます。

東第四曲輪を越えると門と堀切がありその先は古城第二曲輪になります。

堀切の幅は7m、深さ3mと城内最大の堀切です。堀底には掘立柱の穴が見つかり、道としても利用されていました。

古城第二曲輪にも番小屋や櫓があり、建物跡9棟、石打棚(塀庇)跡1基ありました。

古城から一旦下がり、新城に向かいます。風呂ヶ谷は、曲輪の真ん中の窪み部分です。

新城に上がっていきますと帯曲輪に囲まれた平坦な新城に着きます。画像では分かりにくいですが、左からスタートした西第十曲輪→高い所が本郭→下がった所が東第三曲輪と馬蹄状になっているのがよく分かります。このような形で曲輪が構成されているのは、全国でも珍しいですね。メリーゴーランドのようなお城です。

新城から風呂ヶ谷に下がりました。伊予と土佐の国境にある交通の要所として築かれた山城は、2.2キロ、1時間のキャスリングでした。遠方でなかなか来られる場所では無いので、ファニーなお城を思いっきり堪能して下さい!



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