キャスリング 武田氏館(武田神社・躑躅ヶ崎館・日本100名城)

JR中央本線甲府駅から北に2.2キロ、30分歩くと武田氏館(躑躅ヶ崎館・武田神社)があります。

車の場合は、南のお堀沿いに駐車場があります。混雑している場合は、西の第1駐車場、南西の第2駐車場があります。


武田神社となっていますが、お堀と土塁で囲まれた居館です。

1519年 甲斐国守護の武田信玄の父、武田信虎が居館と城下町を築き、現在の甲府の原型となりました。約3キロ北側には、武田氏館の詰の城である「要害山城」があります。(続日本100名城)

武田信虎、信玄、勝頼と3代に渡り居館として使われました。

石階段の上がり、参道を右にそれて進みます。高い土塁で防御されているのが分かります。

館の東側は大手門となり、「大手門東史跡公園」になっています。大手門の発掘では、石塁の下から、武田氏時代に築かれた三日月堀が発掘されました。三日月堀は、丸馬出の施設の一部で、武田氏がよく使う築城方法です。大手門が東側なので、戦国時代には、南側の堀を渡る赤い橋は存在していませんでした。

史跡公園の近くの山が躑躅ヶ崎と呼ばれています。武田氏滅亡後に豊臣秀吉の家臣によって整備された大手石塁です。

武田信虎時代には、武田神社付近の主郭のみ規模とされ、武田信玄の時代に、西曲輪、味噌曲輪、御隠居曲輪と増設されました。その際には厩やと土塁、惣堀もできました。

惣堀には一部水がはられています。東側が躑躅ヶ崎になります。

惣堀北側虎口からは石階段が発見され、南側土橋では門の礎石が発見されました。武田氏館に戻ります。案内板の曲輪配置図を見ると、武田神社は東曲輪と中曲輪だということですね。

武田神社の社務所に、日本100名城スタンプが置いてありました。能舞台では、定期的に歌舞伎などが演舞されています。

江戸期に庭師によって考案された水琴窟と信玄公の娘の産湯に使われたとされる姫の井戸です。井戸からは茶釜なども発見されており、勝頼公がもてなす茶会に使用されたようです。茶器には井戸の水が使用されたと伝えられています。

神社の境内を西に進み土塁の外に出ると、西曲輪です。西側の北は空堀、南は水堀です。

深い井戸があります。更に北に向かいます。北西の方がうず高くなっています。

北には土橋、土塁、虎口があり、武田氏館で一番お城っぽい所です。さらに北側は味噌曲輪になっており、発掘調査中でした。まだまだ解明されていないのが、歴史のロマンですね。

西曲輪北側枡形虎口は、綺麗に残っています。

西曲輪側の門跡です。土塁、虎口好きには、たまらないですね!

武田信玄の名言「人は城、人は石垣、人は堀。情けは味方、仇は敵なり」の通り、質実剛健な城の構え、信玄堤などの治水工事などから信玄の人となりが垣間見えた、約40分のキャスリングでした。

(おまけ)

武田氏館から西に1キロ、山本勘助の屋敷跡があります。現在は公園です。

愛知県豊川市牛久保出身の山本勘助は、九州、中国、四国を歩き兵法や築城技術を磨き、今川義元に仕えようしましたが、断られました。武田信玄が勘助の実力を見抜き足軽大将に命じました。高遠城や小諸城の改修や治世に携わり、江戸時代には「軍師」と呼ばれました。しかし、上杉謙信との川中島の戦いで謙信に一手先を読まれて討死しました。



シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする